1997【1】イキりパッカー

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1997年のアジア6カ国周遊の旅、全4回。

パキスタン航空

成田発マニラ経由バンコク経由カラチ行の飛行機に乗り、一路バンコクへ。

かつての『格安御三家』のひとつパキスタン航空が中華航空に次ぐオレ史上で利用2社目となる航空会社だが、以降も華麗なる飛行機遍歴が続き…結果として飛行機嫌いになる。

ちなみに、前年1996年に乗った中華航空だが…260人以上が犠牲になった1994年の名古屋空港での中華航空140便墜落事故の記憶がまだはっきりと残る中での利用だったから、色んな意味でドキドキの飛行機デビューであった。

さて、さすがはパキスタン航空である。「定時に出発することなどない」と言われていただけあって、いざチェックインする時になってフライトが4時間以上遅れると言われた。

最近はだいぶマシになったようで、2018年の定時運航率は61%と2回に1回以上は定時に出るらしい。その進化が、運航時間の正確さとサービスの質、クレームへの対応で世界の航空会社を格付けする『2018年エアヘルプ・スコア』で堂々のワースト3位にランクインするという形になって表れているのだろう。

結局4時間半待たされた末に、ニコリともしない能面おばちゃんCAに出迎えられ搭乗。

くっせー機内で、CAたちが乗客などお構いなしに臭い消しの香水を散布していた。

機内を流れるイスラームのお祈りの後、いよいよテイクオフの時である。

滑走路を疾走する機体がガタガタと揺れ…その振動でEXITと書かれた非常口案内灯のカバーがガシャンと落ちた。

ヒィィーーーっ!!

普通にドン引きするオレ。

普通に何事もなかったかのように無表情でカバーを拾いカポッ!とはめ直すおばちゃんCA。

さらに、離陸して上昇している時にレバーをいじってもいないのに重力でシートの背が勝手に倒れ出した。これがオートリクライニング機能の初体験である。後に北朝鮮の高麗航空でも全く同じ体験をする。

そうこうしているうちに機内アナウンスが。

マニラ…バンコク…カラチまで安全運航でまいります。
インシャッラー(神の思し召しのままに)!!

これに尾ひれがついて「パキスタン航空の機内アナウンスは『目的地まで無事に辿り着くかどうかは神のみぞ知る』と恐ろしいことを言う」と広まったのは昔の話。

バンコク

これがバンコク初上陸である。

数か月後にバーツ暴落を引き金にしたアジア通貨危機が起こるんだけど、当時はそんなことは知る由もない。

宿はカオサン通り。ドンムアン空港から59番の赤バスで3.5バーツ(当時17.5円)と、空港から市内までの交通手段としては世界一安いんじゃねーの?!と驚いた。

北京の京華飯店、上海の浦江飯店と、これまで宿単位でバックパッカーが集まっているのは目にしてきたが、通り全体というのは初めてだった。

これが1997年当時のカオサン通り。

そのうちにこうなると…

by own, CC BY-SA 3.0, from Wikimedia Commons

カオサン自体は1980年代から旅行者が集まってたらしいけど…こうして写真で比較してみると、1997年時点でもずいぶんと寂しい感じだな。

まだ、カレン民族解放軍に参加すべくミャンマーとの国境へ向かおうという義勇兵希望の若者がカオサンにもいたギリギリの時代。カレン民族解放軍自体がすでにだいぶ劣勢になっていたからそんな人たちにもすぐ出会わなくなったけど。

後になって知ったことだけど、アジアを放浪した後に義勇兵になって『カレン民族解放軍のなかで』(絶版本)を書いた西山孝純氏(享年33才)がバンコクで亡くなったのも1997年だったそうだ。

あと、まだドレッドヘアのプッシャーをよく見かけた頃でもあった。

この旅の時ではないが、翌年1998年8月10日の日記にこんなことを書いている。

カオサンのグリ○ンゲストハウスという日本人のたまり場の宿で一人日本人が殺された。どうも麻薬のトラブルらしい。航空券を売ってまで欲しかったみたいだ。結局、最後はお金がないのに手に入れようとしたのだろう。警察では自殺と断定したそうだが、タイの警察のことだから動く気もないのだろう。パスポートなど身分証明書は全て消えていたそうだ。そのうえ顔も判別できないくらい酷く、日本から来た親も自分の息子だと認めなかったそうだ。

2003年にも同じグ○ーンゲストハウスで、ヘロインでラリった34才の日本人男性が相部屋していた23才の日本人女性を絞殺している。「やらせろ」と迫ったものの断られたから…とか。

オレが知ってるだけでも最低2人は殺されてるのに、なんで未だにあの宿が日本人宿として人気なのか正直よく分からん。

イキリパッカーの掃き溜め

これまで主に中国しか旅して来なかったオレが、初めてカオサンに来て思った正直な感想。

なんか…イキってる人が多いな…

「オレってこんなにすごい旅したんだぜ!」的なアピールをしてくるイキリパッカーとか、「インドで人生変わった」的にインドを熱く語るインドかぶれパッカーとか、それまでオレが出会ったことがないジャンルの人たちがけっこういた。

“タイパンツを履いてサイケデリック柄の布製バッグを肩から下げがち”な人たちね。

オレが一度もインドに行ったことがないのって、もしかしたらインドかぶれパッカーのせいかも。持ち前のひねくれ魂に火がついて、インドについて熱く語られれば語られるほど「インドは行かねー!」みたいな。

そんなオレも、カオサン色に染まるのは早かった。

おーし!オレも負けじとイキっちゃうもんねぇー!!つって。

オレには伝家の宝刀であるこいつがある。

ボク、18才だよ!!

18才というただそれだけの理由で皆に「えぇ?!すごーい!」と良い感じでイキれちゃったのは、今になって考えると全くもって謎。まぁ…当時はまだ珍しかったというのはあるかも知れないけど。

今月中はまだ高校生だよ!!

と、謎のイキり方もしてたな、そういえば。

思うに、なんだかんだ言っても(当時のオレも含めて)イキる奴は承認欲求が強いんだろうな。皆に「すごーい!」って言われたい、認められたいから謎のイキり方をする。そんな奴らの掃き溜めがカオサン通りなのだ(たぶん)。

よく聞かれたこと

当時、会う人会う人に同じようなことを何度も聞かれた。

猿岩石に影響されたの?

前年の1996年に『進め!電波少年』の企画で『ユーラシア大陸横断ヒッチハイク』が大ヒット。実際、番組に影響されて海外に出てきた人も少なからずいた時で、けっこう言われた。

沢木耕太郎の『深夜特急』に影響されたの?

影響されたの?と言われても、読んだことがないというか…本の存在自体を知らなかった。

なぜにバックパッカー?

そもそものきっかけは1995【1】初めての海外に書いた通りだが、旅行に行くのに普通にリュックサックを背負って行ったら、旅先に同じような大人たちがいて『バックパッカー』などと自称していて…知らず知らずのうちに自然と仲間入りしてしまっただけの話。

『リュックサッカー』ではないのね…くらいの入り方であった。

それに、高校生がアルバイトで稼ぐお金なんて微々たるもの。仮に毎月1万円を貯金していたとしても1年で12万円しか貯まらない。お年玉を合算しても、たかだか知れてる額だ。その程度のお金でそれ相応の旅をしたら、自然と仲間入りしてしまっただけの話。

あとは…ただ単純に外国が面白かった、それが一番かも。普通の高校生活を送っていて、同級生にニーハオトイレの話や、硬座地獄旅の話が出来るのは周りにオレしかいなかった。

外国なんて友達に披露するネタの宝庫くらいの認識だったかもしれない。

出会う現地の人に散々親切にしてもらっておいて言うのもなんだが…「世界中に友達を作りたい!」とか「世界中の愛を感じたい!」的な気持ちなんて微塵もなく、ただ狂ってれば狂ってるほどおもしれぇー!!と思っていた18才。

首都プノンペン 当時、タイとカンボジアの陸路国境越えは不可能だった。 理由は簡単で… まだポル・ポト派がいたから。 翌1998年にポル・ポト...
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