1996【3】返還直前

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厦門

硬座での16時間を耐え抜き、ヘロヘロになりながらようやく厦門に到着。

めちゃくちゃ親切にしてもらった周りの人たちに別れを告げ、宿を探す。

当時どの駅にも宿の客引きがウジャウジャと待ち受けていて、列車から降りてきた乗客たちに群がって取り囲み耳元でムダにでかい声でワーワー言ってくるのが常だった。

大抵の客引きは、空港で出迎えをする人みたいに自分のホテル名が書かれたボードを持っているのが、それとは別にフリーの客引きも存在していた。自分のホテルの客引きではなく、斡旋してホテルから手数料を取るタイプだ。

一睡もしていない硬座での旅で疲れ切って思考回路が停止していて、細かく条件を詰めることもなく言われるがまま客引きに連れられて宿を取った。

その客引きというのがフリーの斡旋客引きだった。

『永安人民政府駐厦門刅事処招待站』という長ったらしい名前の宿で1人1泊45元(約630円)。名前からすると地方政府系の宿なんだろか?よく分からん。

部屋に荷物を下ろし「ふぅ~」と一息をついたところで、客引きが部屋に入って来て1人100元(約1400円)の紹介手数料を払えと言ってきた。

まず…1泊45元の宿に泊まるために手数料を100元も払う意味が分からない。

払うわけねーだろ!

それに…そもそもの話をすると、フリーの客引きの場合は手数料は宿側が払うものであって、客側が払うものではない。

宿の人が払ってくれない

知らねえーし!!

お前と宿の問題にオレらを巻き込むなよ!と思ったが、向こうも必死である。

客引き仲間を呼んできて集団で部屋に押しかけてきて脅す作戦に出てきた。

しんどい…早く寝たいのに…

ミノくんと「最後まで戦う?どうする?」つって。

結局、面倒くさかったのでこちらが妥協して事態を収束させることにした。

2人分として手数料4元(約60円)をあげたら、彼らは納得して帰って行った。

え…そんなもんでいいの?とは思った。言い値の98%OFFで大バーゲンじゃん。

ちなみに当時の物価ではコカコーラが1本4元だった。ジュース1本分を奢ってもらうために、どんだけ長いこと居座って、どんだけ大声を出してんだよ…

列車内で周りの大人たちがやたらと「小心、小心」言ってたのって、厦門にはこういう面倒くさい奴がいっぱいいるからなんだろか?

本土から船で5分ほどのところに鼓浪嶼という小さな島がある。

かつて阿片戦争を経て大英帝国の植民地になった地で、日本を含む列強の領事館が置かれていただけあって、少しだけヨーロッパ的な異国の香りがする島だった。2017年に世界遺産になったらしいが、最近は韮山反射炉でも世界遺産になるような時代だからな…ローカル遺産としての価値があることは認めるけど、あえて全人類の“世界”遺産にする必要ってあるのかな?

そのうち『世界遺産』認定ってただのブランドになって、『モンドセレクション最高金賞』レベルのありがたみしかなくなる気がする…

島にはヤシの木が生え、ビーチではココナッツが売られていて南国そのものだ。当時から島内は自動車も自転車も禁止されていて、ゴルフカートのような電気自動車しか走っておらず静かな島だった。

ただ中国らしく、海鮮レストランに行けば日本では天然記念物になっているカブトガニが普通に食われていた。

今もあるかは知らないが当時は、福建省厦門と香港を結ぶ定期船が週4便出ていた。

月・木は集美号で、水・土は閩南号と、2隻体制だった。

11日間滞在した厦門を出発し、集美号で香港を目指した日の日記だ。

ボロボロの船だ。なんかベッドの中に変な虫がたくさんいた。あとゴキブリもたくさんいて、ベッドにあがってきたりした。今晩は寝れないかもしれない。

香港

厦門から1泊2日で香港に到着。

宿は重慶(チョンキン)マンションだ。

香港きっての一大繁華街・尖沙咀のど真ん中に位置しているのに、迷路のように入り組んだグチャグチャした雑居ビルに安宿が沢山入っている有名なところ。

当時は「エレベーター内で刺された!」とか、麻薬売買とか治安面で多少はヤバい雰囲気も残していたが、まぁそこまで言われているほど危ないかな?という印象。

観光している時に知り合った香港人がいた。

どこに泊まってるの?
チョンキンマンションだよ
ちょ、チョンキンマンション?!

香港人にも重慶マンションは有名だが、とにかく危険なところという認識らしく近づいたことすらないと言う。

怖いもの見たさなのか?「友達も誘って一度重慶マンションの中が見てみたい」というので、香港人たちをオレらが泊まっていたゲストハウスに案内することになった。香港人たちはお互いの腕を組んでめっちゃビクビクしながら“悪の巣窟”重慶マンションに足を踏み入れた。角から黒人が現れただけでヒッ!とか言ってて、お化け屋敷だと思ってるのかな?という感じ。

一通り“重慶マンションツアー”を終えた香港人の感想は…

17才はここに泊まっちゃダメ!

何やら相談を始めた香港人たち。さらにどこかに電話をかけたりしている。

色々知り合いに当たってみて、あなたたちを泊めてくれる人が見つかったから、今日から彼の家に泊まりなさい

こうしてオレとミノくんはヘイマンという人の家にホームステイすることになった。

連れて行かれたのは、今まで見たこともないような高層マンション群。

両親と一緒に住んでいるヘイマンも「重慶マンションなんか危ないからうちに泊まりなさい」と、見ず知らずの二人を受け入れてくれた。

決して広いとは言えない家だったが、なかなか外国人の旅行者を家に泊めさせるって出来ないことだよな…

日曜日は飲茶(ヤムチャ)で半日過ごすのが香港スタイルだ、とヘイマンの親に連れられて飲茶に行ったり、ヘイマンや彼の友達たちに連れられて毎晩遊びまわっていた。

ちょうど1996年は香港返還の前年だったので、まだ“イギリス領”香港だった。

ずっと香港人たちと過ごしていて感じたのが、彼らの中国へ返還されることへの不安。

「今のうちにイギリスのパスポートを取った」とか、色々と会話の節々に出てくる言葉に、将来への不安を感じていることは伝わってきた。

マカオ

“ポルトガル領”マカオにも行った。

「マカオに友達がいるから、そこに泊まればいい」と、香港で全部手配されていたので、マカオ人の家にホームステイした。

当時、マカオは治安が非常に悪くマカオ人も嘆いていたのを覚えている。

大陸側から武装強盗がボートでマカオに上陸して、襲撃したらすぐ大陸に帰って行くので、なかなか捕まえられないんだとか…カジノの利権争いでマフィアの抗争が激化しているとか…

自分たちも1999年に中国返還を控えていた状況で、香港が来年返還された後にどうなるか?が気になってるようだったし。

帰国

これが旅最終日の日記だ。

空港使用税を払ったら持ち金がゼロになってしまった。乗ったのは中華航空の台北経由羽田行き。台北までは約1時間、台北で1時間半待って、羽田までは2時間45分の旅だった。なんか長かった旅もあっけなく終わってしまった。香港はまた行きたいが、中国はもういい。

人生初飛行機が2回目の海外旅行の最終日で、栄えあるデビューは中華航空だった…

まだ、ビル群すれすれに離発着する必要があった『世界一着陸が難しい空港』だった香港啓徳空港(1998年に閉港)の時代だ。

ちなみに「また行きたい」と書いている香港にはこれ以降一度も行っていないが、お腹いっぱいになったはずの中国には二度(アフリカからの帰国時と北朝鮮旅行時)も行っているというのは自分でも意味わからん。

2度にわたる海外旅行でさらに調子に乗ってきたオレ。

これはもうてっぺんが取れちゃうんじゃね?と。

だが…

待てよ…

そもそも、てっぺんって何?と考えたら答えが一つしか思い浮かばなかった。

世界のてっぺんと言ったらエベレストだろう!!

ボク、18才だよ!!

18才、ネパールに上陸する。

翌年、高校の卒業式に出ず、独りエベレストを見にネパールを含む6カ国周遊の旅に出た。3月なんてエベレストのベストシーズン(10月頃もだけど)であることを知ってか知らずか、卒業式の日程が丸被りしやがって欠席せざるを得なかったのだ。

なお、卒業証書は頼んでもいないのに後日自宅に郵送されてきた。

ミノくんとはずいぶんと長いこと会っていない。

オレ自身が19才から10年間海外に行っていたこともあるし、風の噂で彼もパプアニューギニアに住んでいると聞いた。

むちゃくちゃ渋いところに行ったな…と、思わずニヤッとしてしまった同級生&かつての旅の相棒である。

教訓:10代で硬座地獄体験は危険。変な感じで吹っ切れて将来マニアック路線に走りがち。

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