第2話に続く第3話。
ラオス
タイ北部の村チェンコンから渡し舟でメコン河を渡り、ラオスのフェイサイに上陸した。
その後ボートでメコン河をパクベンルアンパバーンと南下し、以降は陸路でヴァンヴィエンヴィエンチャンサバナケットとラオスを2週間かけて南北に縦断した。
1989年にラオスで個人旅行が解禁されてから10年近くが経っていたがまだまだ旅行しやすい国とは言えず、新たな町に着く度に警察署に行ってポリスチェック(旧ソ連のレギストラーツィアと同じ)を受ける必要があって面倒くさかった。また、ジャール平原などのラオス中部は武装勢力が出没するため危険で、現地人から聞いた「最近バスがロケット弾で撃たれた」というウワサにビビッたこともあって行っていない。
首都ヴィエンチャンでの日記にこんなことが書いてあった。
散歩していたらスペイン人と友達になった。学校の先生をしているというマネールという人だ。仲良くなって夕食を一緒に取りながら色々な話をした。ボクが来年の夏くらいにスペインに行くかもと話したらぜひおいでと言ってくれた。たぶん行くと思う。
いや、行かない。
来年の夏どころか、その後少なくとも20年はスペインに足を踏み入れることはない。
再びのタイ
ラオスから再びタイのバンコクに戻ってきたオレはムエタイのジムに通い出した。
しかも軽くではなく、けっこうガッツリめで、自分でも何を目指していたのか?はよく分からない。ジムはラマ4通りにある『ヌンポンテープ』。クイーンズパークで走り込みをしてサンドバッグを蹴り続ける毎日と並行して、オレはあることが気が付いてしまった。
あれ?もしかしてモテ期ですか?
モテると言ってもイケメンのモテ方とは全然違う。それは若さゆえにお姉さま方に妙に心配をされてしまうという変なモテ方であった。幸か不幸か19才の実年齢よりも下に見られてしまうのはナメられるから弱みだと思っていたが、ここは逆に強みとして最大限に活かすことでオレは海外を生き延びてゆくのだっ!
色欲にまみれて獲物を狙うハイエナのようにギラギラした眼のおっさんたちが闊歩するこの腐った世紀末都市で、捨てられた子犬のようにウルウルした目をしたウブな10代を演じて…いや、素のままの無垢なオレをさらけ出すことでお姉さま方の懐に飛び込むのだっ!
細かいものまで挙げてしまうと色々あるが、一番お世話になっていたのは間違いなくママとおねえの2人だろう。
ママ
日記に頻繁に登場するのが、ママだ。
ママの家に行って食事をする。ママもボクのことを子供みたいだと言っていつも食事に呼んでくれる。別にママと言ってもクラブのママとかじゃない。向こうが自分のことを『ママ』と呼べと言ってきたのだ。
朝いきなり電話で目が覚めた。ママが食事を食べに来いと言うので、言われるがまま食べに行った。最近は食事で全然お金を使っていない。今日の食事はキャベツにうどんみたいな麺を包んで野菜を乗せてタレにつけて食べるやつだった。食後は、ママの家で昼寝をした後、ママとメイとでルンピニ公園に行って一緒にボートに乗ったりした。
これは、スクムビット・ソイ71に住んでたママのことだ。顔は一切覚えてないが、71のパックソイからしばらく行った(パタナカーン寄りの)右側にガソリンスタンドがあって、その横のソイを入ったマンションに住んでいたことは、何度も通っていたから覚えている。
ちなみにママは何の仕事をしてるか?って言うと…ずばりポン引きである。ママは当時16才だった自分の娘メイを売っていた。偶にババ専の客がいたら自分が相手をするみたいだけど。
夜、親子で仕事に出かけた後オレは彼女たちのマンションで留守番をしながら帰りを待ったりしていた。仕事から帰ってきたらご飯を食べさせてもらったり、遊びや買い物に一緒に付いて行ったりしていたのだ。
おねえ
もう一人がおねえ(オネエではない)。
1階に住んでる『おねえ』とボクが呼んでるタイ人のおばちゃんというかおねえさんの口利きで同じマンションの2階に住むことになった。おねえは日本に密入国したこともあって関西弁を話す面白い人だ。ボクのことを息子みたいだと言って食事とか食べさせてくれる。
これはスクムビット・ソイ81のリェンマンションに住んでたおねえ。
昔、日本のイミグレをほふく前進で強行突破して密入国したという。「お金が貯まったから出頭して強制送還で帰ってきた」そうだが、当時はバンコクのどこかの日本人向けカラオケ(場所は知らない)でホステスをしていた。
経験を積むための練習台というよく分からない理由で、なぜかおねえの同僚ホステス(確か27才くらい)をあてがわれて一緒に同棲することになったのだ。ちなみに、この女は日記には一切登場しない。なんか性格が悪かったし嫌いだったことくらいしか覚えていない。
おねえ自身はと言うとホストに入れ込んでいて、給料のほとんどをホストに貢いでいた。旧式のBMWに乗って偶におねえの部屋にやってくるホスト君にこんな誘いを受けたことがある。
彼によると、タイのホストはチークダンスを踊れないといけないという。あと客と寝るのも仕事のうちだそうだ。
タイのホストクラブの場合、客が女性であるとは限らないそうだ。というか、大半は男性客だという。「チークダンスが踊れないから」とお断りさせていただいた。
おねえは自分の好きな男が仕事とは言え他の男に抱かれてるのが辛いらしく、酒に溺れる日々を過ごすようになって仕事にも行かなくなり、仕事に行かないことで給料も入ってこなくなり、給料が入ってこなくなることでホストに貢げなくなり、最後は捨てられていた。
ミシュラ
さて、おねえと同じリェンマンションにいた時、こんなことがあった。
夜、部屋の前まで帰って来て焦った。カギがない。いつもは財布に入れているのだが、部屋の中に忘れたままロックしてしまったようだ。困っていると、向かいの部屋のインド人が「とりあえず朝までオレの部屋に泊まれ」と言う。見た感じ悪い人じゃないなと思ったボクは、言われた通り朝までお邪魔することにした。
彼の名前はミシュラ。部屋で電話とファックスを使って銀と船の貿易の仕事をしているという。タイ人と結婚したのだが、女に金を散々使われた挙句に他の男のところに逃げられたらしい。だからタイ人は信用できないと盛んに言っていた。
同居人の女はそもそも仕事柄遅い時間にしか帰ってこない上に、仲が悪かったこともあって朝まで帰ってこない場合もあった。
自分の部屋から閉め出されてしまったオレを快く招き入れてくれたミシュラは、次から次へと酒を出してくれた。野郎2人でウィスキーを飲んでいるうちに話題は下ネタになってきたのだが、そもそもミシュラのブチ込んでくる下ネタがリアクションに困る内容だった上に、オレの貧弱なボキャブラリーの英語では上手い返しが思い付かなかった。
何なんだ、このクソみたいな会話は!?とは思ったが、泊まらせて頂く立場上は家主を褒めてあげた方がいいかなと。
夜も更け、いい感じに酔いも回ってきたところで就寝タイム。
1人暮らしのくせにキングサイズのWベッドが部屋にどーんと置かれており、ミシュラは一方の端に、オレはもう一方の端でミシュラに背を向けて寝ることにした。
ところが電気が消えてすぐに、ミシュラがこちらに転がってくる気配がする。
と思った時にはもう後ろからミシュラに抱き付かれていた。
長いヒゲでオレのうなじをグリグリーッンとしてきて「えーーっ…」と思ったが、ミシュラもだいぶ酒を飲んでいたし酔って男と女の違いも分からなくなっているのだろうか。
何度も「お願いだから止めて下さい」と注意をした。だが、あいつは聞く耳を持たず調子に乗って、しまいにはいきり立った己のナニをオレの臀部に押し付けてくるという暴挙に出た。
あまりにしつこいセクハラにキレてしまった。
あいつをふりほどいて殴ったが暴れてきたので、部屋にあった椅子で謝るまで殴り続ける。
翌朝、同居人が帰ってきていたようだったので自分の部屋に戻ることにしたが、あいつは大人しく床で丸まって寝ていた。
そうか!こういう時のためにオレはムエタイのジムに通っていたんだ!
かつてどのムエタイチャンピオンもやったことがない『椅子での連続殴打』という秘技まで修得したオレはこの後しばらく経ってジムをやめた。