首都プノンペン
当時、タイとカンボジアの陸路国境越えは不可能だった。
理由は簡単で…
まだポル・ポト派がいたから。
翌1998年にポル・ポトが死んで、「1人死ぬだけでそんなに変わるもん?!」ってホントびっくりするくらい情勢が劇的に変化するのだが、97年当時はまだ“クメール・ルージュの残党”がタイ国境沿いのジャングルで戦っていた頃。ちなみに、ラオス南部のカンボジアとの国境にあるシーパンドンも危険過ぎて旅行者は近づけなかったが、ベトナムからカンボジアへの陸路国境越えは当時から可能だった。
そんなわけで、そもそも陸路国境が開いていなかったので空路でカンボジアへ。
使ったのは…1994年に運航を開始し2001年に死んだロイヤル・カンボジア航空である。
バンコクからベトナムのホーチミンまでの往復チケットを購入し、カンボジアのプノンペンにストップオーバーすることにした。
“ロイヤル・カンボジア”とか言われてもロイヤル感など皆無の恐ろしい飛行機を使ってるんじゃねーか?と思っていたが…
実際にはシンガポール航空だかマレーシア航空だかのおさがり機材を使っていて、パキスタン航空の飛行機なんかより遥かにキレイだった。
プチ内戦中
「狂ってれば狂っているほどおもしれぇー!!」と調子に乗って軽く考えていたオレのさらに上をいっていた当時のカンボジア。
逆に全然おもしろくない!というね。
その後も含めて今までに色々と行った国々の中で、当時のカンボジアが一番怖かったかも。
ちょうどあの頃は…
第一首相のラナリットと、第二首相のフン・センが超絶に仲が悪かった。
好き好んであえてその時期を選んで行ったわけではないが、結果的に『内戦以降で最も危ない時期』に行ってしまったと。
ガチ内戦が終結して4年が経っていたが、プチ内戦みたいな感じというか…各地でラナリット派とフン・セン派の兵士が散発的に小規模な武力衝突を繰り返していて若干カオスな様相を呈していた。
当時から前兆はあったのだが、オレが行った3カ月後にラナリットがバンコクに外遊中で留守の時を狙って「今がチャンス!」とばかりにフン・センが一気に攻勢をかけてラナリット派は敗退。あの時は戦車も出てたらしいよ。
この時、邦人救出のため“初めて”自衛隊の輸送機が海外派遣されている。
国王の息子なのにフン・センとの政争に敗れて失脚するラナリット…対して、これを機に全権力を掌握し、今や完全に独裁体制を確立しているフン・セン。
ちなみに、オレが乗ったロイヤル・カンボジア航空が2001年に倒産した時の表向きの理由は「2001年の9.11アメリカ同時多発テロ事件の影響」となっているのだが…「え?テロからわずか1カ月で倒産してるし、9.11と全然関係なさそうなカンボジアで影響あったの?!」と思っていたら、こんな過去ニュースを見つけた。
Aviation News『Cambodian coup hits Royal Air Cambodge』
ロイヤル・カンボジア航空はラナリット派と親密な関係にあって、フン・セン派とは敵対関係にあったようだ。たぶん…ラナリットが失脚してフン・センに潰されたんじゃないか?と。
警察
ただ、旅行者としてはラナリット派とフン・セン派の喧嘩はあまり直接的には関係なかった。ラナリット派の政治集会に手榴弾が投げ込まれるとかあっても、そもそも政治的な集まりには近づかないし。
それよりも警察がヤバかった!!
国の2トップがガチンコ喧嘩中で国全体がグチャグチャだから、警察もやりたい放題。
プノンペン市内も昼間は普通に歩けた。
昼は警察も“警察”だから。
夜になると同じ警察が“武装強盗”に変身する。
なんせ表の顔は警察だから、もれなく武装してんのよ…。一応、制服はちゃんと着てるから強盗を外見で一発で見分けられるのが唯一のメリットかな? 夜、警察に見付かったらほぼ確実に襲われるから暗闇に紛れて(首都といえど街灯など一切なかった)周囲を警戒しながら飯を食いに行くみたいな。警察を見かけたらダッシュで逃げる。
あくまで実体験を元にした“小説”ではあるが、実際に97年にカンボジアで獄中生活を送った人の書いた本で当時の雰囲気がよく分かるようには描写されてると思う。
オレの中で、あそこまで公然と人身売買が行われているのを見たのは後にも先にも当時のカンボジアだけだし、金さえ出せば何でも出来る状態。
軍に金を払えば、金額によってピストルから小銃、機関銃、戦車砲まで何でも撃たせてくれたのは知っているが、あくまでウワサで本当かどうかは不明だが…さらに金を払えば生きた人間(囚人)を的にして実弾を撃たせてくれると聞いた。
ありうるな…とは思ったけどね。
この当時って2年後に迫った1999年の人類滅亡説とか世紀末=終末説も出てた時代だったけど、まぁ、これなら人類が滅んでもしかたねーな…とは思ったけどね。
キャピトル
宿は、ろくでもない奴しか泊まっていなかったキャピトル。
当時シングルが1泊3USドル~だった。
日が暮れると、部屋からでも乾いた発砲音が普通に聞こえてたな…毎晩。
喧嘩か、強盗か、どっちか。
オレはその時代を知らないが…カオサン通りに旅行者が集まる前は、バンコクのヤワラー(中華街)が旅行者のたまり場だった。そんなヤワラーにあったジュライホテル(1995年にタイ当局によって閉鎖)でドラッグと女に溺れていたジジイたち…通称『ジュライ組』が行き場を失って移動したのがプノンペンのキャピトルで、新たに『キャピトル組』になっていた。
さすがに18年間生きてきて“小児買春を喜々として自慢してくる変態ジジイ”に面と向かって出会ったことがなかったから、なかなかショックだったな…
旅行者からあの手この手で金を取ろうとする詐欺師と、変態ジジイたちのたまり場だった当時のキャピトル。あの頃キャピトルにいたジジイとか、もうほとんど死んでるかも。
ツールスレーン博物館
ポル・ポト率いるクメール・ルージュがカンボジアを支配していた時代、自国民の少なくとも2割くらいを粛清したとされる大虐殺。
なんか…メガネをかけていたら処刑されたらしいよ。
インテリだ!って。
当時はコンタクトレンズとかなかっただろうからな…
そんな暗黒面を今に残す収容所(本当は学校)跡が、プノンペンにあるツールスレーン博物館だ。
2万人近くがここに送られ、生還率0.0004%とほぼ生きては出られなかった場所。
血の染み付いた床とか、当時の拷問グッズとか見てて不思議な気持ちになった。
今、オレは目の前に映るものをあくまで“歴史”として見ているんだけど、この大虐殺を主導した本人ってまだタイとの国境付近で生きてる!!と思うと、『過去』だと思っていたものが急に『現在』にワープしてきたみたいな感覚に襲われて少し混乱したというか。
と思っていたら、翌年あっさりとポル・ポトがジャングルの奥で死んだとか言って「は?!」とは正直思った。さらにその翌年にはタイとの国境が開いて普通に陸路で行けるようになっちゃって「は?!」って。時代の流れ早くね?って。
国内移動
カンボジアと言えばアンコールワット!!
逆に、それ以外に何があるの?ってくらい絶対に外せない観光地。
陸路移動は危険過ぎてアウトだったので、ボートでトンレサップ川を上ってシェムリアプを目指すことにした。
ボートにもスローボートとスピードボートの2種類があって、逃げ足の遅いスローボートは武装強盗のいい標的になるのでスピードボートの一択だ。
ホントはいやいや飛行機で飛べよ!って話なんだけど。
200馬力のヤマハ製エンジンを4基も積んだ恐ろしいスピードボートなのだが…
異常に船体が長い!!
こいつでトンレサップ川を矢のようにブッ飛ばすのだ。
約300kmの距離を5時間で走ったということは…時速60km/hで、競艇のボートくらいのスピードか?
遅いと襲われるからな。
ただ、なぜか船内に入れるのはカンボジア人だけで、外国人は問答無用で屋根の上に乗せられる。理由は不明。
屋根の上から見下ろした画。
水上警察チェックポイントでは物売りもスタンバイしている。
トンレサップ川の渡し船。
銃撃
プノンペンを出て2時間ほどが過ぎた頃。
矢のように走るスピードボートの屋根の上で、ずーーっと強烈な向かい風を浴び続けていたオレの髪は常時オールバック状態になっていた。
オレの前髪…強風で生え際が風下に後退してハゲちゃってるかもしれん!!
と、心配になり始めた時だった。
タタ!という乾いた音が聞こえたかと思ったら、ボートがいきなりの急旋回っ!!
ボートから振り落とされまいとしがみつきながらパッと音がした方を向くと、川岸からAKっぽい小銃を持った奴がさらにタタタ!っと。
とっさに隣にいたガタイのいい白人パッカーを盾にする。
身近にちょうどいい盾が彼しかなかったから…
屋根の上は隠れるところがなく、生身を剥き出し状態で撃たれるって、むちゃくちゃ怖い。
え?だからカンボジア人は船内で、外人は船外なの?!
結局、川岸の奴はそれ以上は撃って来ず、ボートも高速離脱。
屋根の上にいた外人全員がビビッて、チケット回収の車掌のお兄さんに「おいっ!!マジで撃って来てたぞ!」と詰め寄る。
「あれは強盗じゃない。このボートのエンジン音がうるさいから遠ざけるために撃っただけで、当てるつもりはなかった」
いやいや…
騒音に対するクレーム方法が銃撃ですか?!というのもあるが…オレは知っているのだ。
今は余裕をぶっこいて「ノープロブレム!」と言うお前だが、銃声がした途端に真っ先に船内に思いっきしヘッドスライディングで飛び込んで隠れたのを。