南アから日本に帰る【3】スワヒリ

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第2話に続く第3話。

ルサカ→ダルエスサラームの51時間移動で心が折れた前回。

今回は…その後の14日間の長期休養中の話。

スワヒリ文化が最も色濃い地

南部アフリカの9カ国は自分の車で回ったことがあったので、ザンビアまでは以前にも来たことがあったが、ここタンザニアからオレにとってはじめて訪れる国々になる。

日本の2.5倍の大きさがある大陸本土側のタンガニーカ(Tan)と、沖縄くらいの大きさの島ザンジバル(Zan)が合体してタンザニア(TanZan-ia)連合なので、同じタンザニアだけど本土からザンジバルに渡る時には“入国”手続きがあるし、ザンジバルにはザンジバルで独自に大統領がいる。

そんなタンザニアで最大、アフリカ全体でも屈指の大都市ダルエスサラーム(以下、ダルエス)があるのは大陸本土側。

船でダルエスから1時間半くらい沖合にあるのがザンジバルである。

ザンビアからの51時間移動で心が折れたオレは、ダルエスとザンジバルで14日間の長期休養に入った。

ダルエスサラームなんて名前からしてアラビア語由来だし、町の雰囲気もこれまでに行ったことのあるアフリカの町とは違っていた。

まず、イスラーム色が濃くなりヒジャブを身に着けた女性が目につくようになった。

さらに、アラブ系やインド系の人たちを多く見かけたのも印象的だった。

アラブ系やインド系というのは民族的なことで、本人たちに聞いて回ったわけではないので憶測だが国籍的にはタンザニア人だと思う。

アラブ系が多いのは、その歴史からだろう。

大雑把に言えば、アフリカ大陸のインド洋沿岸部は300年くらいアラブ人の支配下にあった。

ArnoldPlaton, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

ザンジバルなんて20世紀半ばまでアラブ人であるオマーン人のスルターン(君主)がいたくらいだから。

インド人商人や職人が移り住んできたのもアラブ人支配下の頃からと古いようだ。

ダルエス市内にはヒンドゥー寺院も数多くあるが、こんな建物もあった。

1931年に建てられたのであろう建物には、サンスクリットで「サッティヤメーヴァ ジャヤテー(真実だけが勝利する)」というインドの国章にも刻まれている標語が見える。

イギリス植民地時代に労働者として渡って来たインド人も相当数いるみたいだが、寺院や建物を建てられるくらいの財力があるのは労働者ではなく、植民地時代以前から移住していたインドの豪商クラスだろうな。

ちなみに、2007年のミス・タンザニアはインド系タンザニア人である。

QUEENのフレディ・マーキュリー(両親ともインド人)もザンジバル生まれである。

ザンジバルは、オレの中ではバリみたいな感じのところだ。

インドネシアのバリ島も非常に独特な雰囲気があるが、ザンジバルもアラビアンで、インディアンで、アフリカンな独特な雰囲気を持つ島。

アラブとインドとアフリカという「どれも味が濃ゆいっ!」という3つがギュッと合体して、3つとも自己主張が強すぎてマズいだろ…と思いきや、意外と調和していて旨いというね。

それがまさにスワヒリ文化なのだが、ザンジバルはスワヒリ文化の京都と言っても言い過ぎではないはず。

生粋のザンジバル人のスワヒリ語は、たとえば、ケニアの首都ナイロビなどで話されている、粗雑な、単調なひびきをもつスワヒリ語に一度でも触れたことがある者には、まったく別の言葉にさえ思えてしまう。ザンジバル・スワヒリは優雅で、奥ゆかしさ、みやびをもつと感じたものだ。

白石顕二著『ザンジバルの娘子軍』

音楽もそうで、ザンジバルが発祥のターラブ。

Grand Orchestre Taarab de Zanzibar feat. Saada Nassor "Hisiya za Muungwana

アラビアンなメロディーに、スワヒリ語を乗せて歌うターラブは、もともとはザンジバル宮廷音楽として誕生したものが大衆化していった雅な音楽なのだ。

103才で亡くなった『ターラブの女王』と呼ばれたビ・キドゥデの生前のステージをザンジバルで見たことがオレのちょっとした自慢である。

ザンジバル・シティの旧市街ストーンタウンは世界遺産になっており、密集する石造りの建物の間を迷路のように入り組んだ細道が通る。

街を出ればザンジバルの固有種ザンジバルレッドコロブスがいたり…

美しいビーチがあったり…ザンジバルは間違いなく東アフリカを代表する見どころのひとつ。

ちなみに…日清戦争後くらいからザンジバルには日本人が住んでいて、1920年代のザンジバルで最も賑わっていたのはジャパニーズ・バーだった!なんて話も。

白石顕二著『ザンジバルの娘子軍』(1981年・絶版)は、なかなか興味深い本。

ひとりの老婦人が神戸港に降り立った。アフリカの小さな島からの、半世紀を経た帰国だった。なぜ彼女はそこに行き着いたのか。日本近代と重なるようにその足跡をのばし、国策に翻弄され打ち捨てられた「からゆきさん」を追ったドキュメント。

からゆきさん(日本人売春婦)は、早ければ日清戦争後くらいから、日露戦争の頃にはすでにアフリカ各地にまで行っていて、明治の日本人探検家がアフリカを旅したら「こんなところにも日本人がっ!?」とビックリするほど(実質的に)海外進出の先駆者だったみたいだが、当然ながら表舞台には出てこない。

明治時代には南アフリカ、マダガスカル、モーリシャス、モザンビーク、ケニアにからゆきさんがいて、その中でも最も多くのからゆきさんがいたのがザンジバルだった。

『ザンジバルの娘子軍』は、明治にザンジバルに渡り、半世紀を経て第二次世界大戦後に日本に帰って来た元からゆきさんの姿を追うドキュメント。

長距離移動ですぐ心が折れちゃうオレとは違い、「石にかじりついてでも生きてゆく」明治の日本人女性たちがかつてザンジバルにいた。

タケシくん

ダルエスで日本人旅行者タケシくんと出会った。

はじめての海外旅行で、アフリカを半年かけて旅するつもりで日本から来たというタケシくん。

オレが出会ったのはアフリカ上陸4日目のタケシくんだったが、すでに2日目には拉致られて身ぐるみ剥がされていた。拉致たてほやほやである。

本人いわく、町を歩いていたら車に乗った“優しい地元の人たち”に「車でダルエスを案内してあげる」と声をかけられ、乗り込んだところそのまま拉致。身ぐるみ剝がされて「どこかも分からないスラム街みたいなところのど真ん中で捨てられて、色んな人に道を聞きながら宿まで歩いて帰って来た」そうだ。

中南米でポピュラーだが、アフリカでもまぁまぁある特急誘拐(Express Kidnapping)をいきなり2日目で体験しちゃって、初海外旅行を存分に満喫しているようであった。

まぁ・・・オレも日本を出て4日目に知らない女の部屋にノコノコついて行ってまんまとクスリを盛られ、5日間も籠りっきりで全精力を絞り取られた苦い過去があるので、あまり他人のことをとやかく言えないが、日本を出た直後というのは誰しも気が緩んでいるのだろう。

ビールを飲みながらタケシくんとしゃべっていて、オレの第六感が「一緒にいたら面倒なことに巻き込まれそうな危険な香り」を彼から感じていた。

たまにいるの、そういう人。

ピュアなうえに物怖じせず、好奇心旺盛だがちょっとどこか抜けていて、そのくせムダにポジティブとか、一番やべー奴だから。

わずか2日前に拉致られて身ぐるみ剝がされてるのに本人はケロッとしていて、その後も「いったいどういうメンタルされてるんですか?」と思うほど精力的にダルエスを歩き回っていたが、オレは行動を共にしていない。

ダルエスを歩き回るのが怖いのではない、タケシくんと一緒にいるのが怖いっ!

なお、タケシくんはその後、ダルエスからザンジバルに移動して4日目にビーチを歩いているところを刀を持った男に「殺す!」と言われて、腕時計を奪われていた。

彼は刀と言っていたが、きっとパンガのことだろう。

中南米のマチェーテと同じで、アフリカのパンガは草を薙いだり、農産物を収穫したりするための大型の山刀のことだ。

まぁ、刀で正しいか…

少し話は逸れるが、後日ケニアで出会って仲良くなったスロヴェニア人のカップルがいる。

出会ったのは2人が退院してきた直後だったが、入院していた理由というのがモンバサのビーチを散歩していたところをパンガを持った男にいきなり無言で切りつけられ、持っていた金品を奪われたからだ。

彼氏のアリョーシャは眉間に切り傷があって、あと数cmずれていたら眼球を切られて失明していた可能性もあった。彼女のモニカは肩から胸にかけて切られていた。

辻斬りタイプの強盗である。

アリョーシャは「無言でいきなり切りつけるのは無しで、とりあえず一回は脅そ?そしたらこちらも金品を出すから」と言っていたが、その点でタケシくんの場合は【パンガ(凶器)を見せる→言葉に出して「殺す」と脅す→持ち物を奪う】という全ての手順をきちんと踏んでくれる正統派タイプの強盗で、ある意味ラッキーだったかもしれん。

切りつける前に一度は言葉に出して脅してほしい、これが旅人のささやかな願いである。

悪人を引き寄せる不思議な魅力を持っていたタケシくん。

旅のスタートからあんなハイペースで襲われていたら、あれから半年も旅を続けられていたとはとても思えない。彼のメンタル的には大丈夫そうだが、持ち物とお金の減りが早そう。

ザンジバルで「やっぱり海外って日本とは全然違うなぁ~」としみじみ語っていた彼のその後をオレは知らない。

出発

14日間の長期休養を経て、オレもようやく旅モードに入ってきた。

今後だが…

インド洋沿いのダルエスサラームから、タンガニーカ湖に面したキゴマまで、タンザニアを東から西に1254km横断して内陸に向かう。

キゴマからは国境を越えてブルンジ、ルワンダ、ウガンダと内陸の国々を通りながら北上して赤道を越え北半球に入ろう。

ダルエスサラームからキゴマまでは53時間の移動だった。

近づいている…ドイツに近づいているぞっ!

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