南アから日本に帰る【12】戦士

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第11話に続く第12話。

ついにアフリカ大陸を出て、アラビア半島に船で渡った前回。

今回は、かつて幸福のアラビアと呼ばれたイエメンの、現在も続く内戦がはじまる前の話。

幸福のアラビア

アフリカ大陸のジブチから紅海を渡って辿り着いたのは、イエメンのモカ港。

モカコーヒーのモカである。

オレがピーナッツやシナモンと一緒に積まれて海を渡ったように、かつてエチオピア産コーヒーも一度モカに運ばれ、モカから船で世界に広まった一大コーヒー集散地としての名残でエチオピア産であってもモカコーヒーと呼ぶ。

大のコーヒー好きで、ぜひコーヒーの代名詞にまでなったモカに行ってみたい!という人を引き留めはしないが、おススメもしない。

コーヒー貿易での繁栄の名残など一切感じさせない、ただの寂れた田舎の漁村だ。

17世紀ごろコーヒー集散地として栄えたことがあるというだけで、コーヒーの産地でもないモカ。ジブチから紅海を渡った対岸にあるということは…そう、むちゃくちゃ暑いだけ。

さっさと暑い沿岸部を離れて山の上に避難しよう!と、モカに上陸後すぐに首都サナアを目指した。

モカからタイズを経由してサナアまでは6時間半。

タイズからは険しい山道になり、山岳地帯に入ってゆく。

ざっくり言ってしまえば、イエメンの国土は荒涼とした山々か砂漠のどちらか。

標高2300mにある首都サナアを中心とした西部は、沿岸部を除いて2~3000m級の山岳地帯。

サナア近郊にはアラビア半島最高峰のナビー・シュアイブ山(3666m)がある。

山を下りた東部はほぼ砂漠。

そんなイエメンには、ビザ切れ前日に出国するまで1カ月間滞在した。

サナア

首都サナアは標高が高いため日中は過ごしやすく、夜は肌寒い。

現存する世界最古の都市のひとつだけあって、世界遺産にもなっている旧市街は雰囲気も抜群だ。ここは一生に一度は行っておきたい。

迷路のような旧市街を歩けば、二カブを着た全身黒装束の女たち、腰にジャンビーヤという刀を差した男たちが行き交い、今自分がいつの時代にいるのか分からなくなる。

旧市街に泊まってみるのもいい経験かもしれないが、オレは2泊が限界だった。

旧市街にはモスクが100以上ある。つまり…日の出前にしては早過ぎる3時台に四方から至近距離アザーンがサラウンドで鳴り響きとてもじゃないが寝ていられない。「礼拝の時間ですよぉ」と知らせるためのアザーンなので、当然のように寝てる奴を叩き起こすくらいの勢いで「絶対におまえを起こすっ!」という強い意志を感じるアグレッシブアザーンであった。

毎日3時に起こされるのはたまったもんじゃないと、2泊で逃げ出した。

旧市街は泊まるところではない、歩き回りに行くところ。

山岳地帯

内戦がはじまる前のイエメンも自由に旅行できていたわけではない。

行きたい場所ごとに警察に行って旅行許可証を取得する必要があった。

旅行許可証がないと検問を通れないし、そもそもバス会社もチケットを売ってくれない。

それだけ治安が悪かったのかどうかで言うと…

泥棒すると最悪は右手を切断されることもあるから軽犯罪はほとんど気にするほどのことでもなく、逆に“安全な国”の部類に入る。

じゃあ、なんでいちいち旅行許可証が必要だったか?と言うと誘拐されるから。

「イエメンは…」と一括りにするのは乱暴すぎるが、首都サナアを含む山岳地帯は古の時代より戦闘民族の戦士たちが住む地域。

これ、面白おかしく言っているわけじゃなくマジで。

古代ローマの歴史学者が紀元前に書いているから、少なくとも2000年以上続く戦士の国。

首都サナアより北は、ハーシド部族連合とバキール部族連合というイエメン二大部族連合がいる地。東は、マドハジ部族連合がいる地。

当時というか…内戦になるまでずっと、イエメンという国は政府と部族による協力と対立の微妙な関係の上で成り立っていたところがあって、部族地域での政府の実効支配は基本ゆる~い感じ。

ゆえに「おいおい、オレたちのテリトリー内のインフラを早く整備しろよ!」みたいな感じで部族が不満を募らせると、外国人旅行者を誘拐する。政府の面子を潰して交渉を自分たちに有利に進めるための人質(交渉の道具)にするわけだ。

古いが1997年のワシントンポスト紙の記事『Kidnapping in Yemen Is Hospitality(イエメンでの誘拐はおもてなし)』内でハーシド部族連合長がこんなことを言っている。

誘拐は観光の一部であり、観光客にとっては冒険である。なぜなら、観光客は部族の習慣や彼らのもてなしの良さを知ることになるからだ

そう、誘拐される外国人旅行者は客人として手厚く扱われ、部族からおもてなしを受けるので実は「誘拐されてみたい」と密かに思っていたりする。

でも、誘拐なんかされたら自分たちが部族側の要求を飲まないといけなくなるのでイエメン政府としては外国人旅行者を守りたい。

だから、地方に行く時は旅行許可証が要る。その地域の部族との関係があまりよろしくない時には許可が下りないし、許可が下りた地域でも移動には軍の護衛を付けて誘拐チャンスを潰してくる。

イエメン北部の部族は、戦士の伝統を今も守りがっつり重武装している。

ジャンビーヤは“男らしさ”の象徴として、14才になった男子は帯刀できるようになる。武士が元服して帯刀するようになるのと同様、ジャンビーヤを帯刀することで一人前の男として認められるのだ。

北部の部族はジャンビーヤに加えて、常日頃から銃火器でも武装している。

Yemen's Houthi arms dealers are cashing in on conflict

イエメンではスーク(市場)に行けば、何でも武器が揃う。

何気にアメリカに次いで世界で2番目に一般人が武装している国がイエメン。

そんなイエメン北部に許可証を取って行った。

護衛のイエメン軍に先導されてサナアの北、アムラーン県に行く。

アムラーン県よりさらに北にある最北の地サアダ県は旅行許可が下りなかった。

北部の山岳地帯にある村々は、ほとんどの場合このバニ・マイムーンのように防衛しやすい山の上に位置している。

県都アムラーンには、紀元前からの歴史がある城壁に囲まれた旧市街がある。

スーラも、岩山の上にある要塞化した村だ。

山の上にあることで敵を早期発見しやすくなるし、地形を上手く使って要塞化していて攻め難くしてある。

あのオスマン帝国でさえスーラを攻め落とせなかった。

北部を移動中に食堂に立ち寄ると、入ってくる男たち全員が腰にジャンビーヤを差し、肩にはカラシニコフを担いでいる。

出陣前の腹ごしらえではない。特に何か理由があるわけでもなく通常スタイルだ。

食堂の客全員がテーブルに自分の小銃を立て掛けて飯を食っている様はなかなかである。

“男たるもの武装してなんぼ”という戦士的思考なので、腰にジャンビーヤを差し、肩にはカラシニコフを担いでいる“一人前の男”になった10代の少年も何人か見かけた。

イエメン内戦で「少年兵が…」とニュースになっていたが、元服して初陣を飾った若武者に「君、少年なのに戦に行くの?」と言ったら「この無礼者めがっ!」が斬り捨てられそうだが、イエメン北部の部族もそれに近い感覚の気がする。子供からジャンビーヤを差してカラシニコフを持てる“大人”の戦士になったのだ。それを我々は少年兵と呼ぶ。

これは子供。

これはジャンビーヤを差せる年になった一人前の男。

ちなみに、首都サナアなど都市部の入口には『小銃持ち込み禁止』の標識が立っているので、都市部で一般人がカラシニコフを持っているのを見ることはない。

シバームとコーカバンは、同じ部族が山の上と下に分かれて暮らす双子の村。

断崖絶壁の上にあるコーカバン(標高2850m)は軍事担当。

コーカバンから見下ろすと、農業と商業を担当するシバーム(2500m)が見える。

敵が攻めてきたら、シバームの住民はコーカバンに避難し、コーカバンの住民は戦う。

さらに北に進むと、険峻な山々が行く手を阻む。

これが『オスマンの墓場』とも呼ばれる断崖絶壁の上にあるシャハラ(2600m)。

オスマン帝国も攻略できず、逆にオスマン兵の墓場と化した難攻不落の村である。

麓で待機する護衛のイエメン兵たちとは一旦ここでお別れ。

理由はよく分からない。「行けないから麓で待っている」と言っていたので、機関銃で武装したイエメン兵たちの受け入れをシャハラが拒絶しているのかどうか知らないが、これまでずっと付いていた護衛のイエメン兵たちもシャハラだけは来なかった。

急な山道から周囲を見渡すと、色が同化していて見づらいがあっちの山にもこっちの山にも頂上に村があり、山の斜面に畑を作っている。

シャハラからの景色。

隣の山にある村とは、深さ100mの渓谷にかけられた橋で繋がっている。

16世紀から何度もオスマン帝国の攻撃をしのいだものの、次なる攻撃に備えて17世紀ごろにつくられたとされているが、どうやって橋をかけたのかはよく分かっていないらしい。

オスマン帝国は1905年にもシャハラを攻めているが失敗している。

橋とは逆側の山にも頂上に別の村があるようだが…

標高が同じくらいなので近くには見えるが、どうやって行けるのかは分からん。

たぶん…一旦山を下りて、またあの村がある山を登らないと行けなさそう。

砂漠地帯

首都サナアから東に向かうと、やがて山岳地帯を下り砂漠地帯に入る。

その境目にあるのが古都マーリブ(1120m)だ。

旧約聖書にシバの女王として登場する、シバ王国の首都だったとされる場所。

ちなみに…古代イスラエル王ソロモンとシバの女王の息子メネリク1世が建国したのがエチオピアという伝説がエチオピアでは信じられている。

さて、このマーリブだが…

世界遺産にもなっているのだが、内戦前からとにかく行きにくいところであった。

マドハジ部族連合のアビダ族やムラド族のテリトリーなのだが、このマーリブの部族は常にイエメン政府に反抗的で、誘拐チャンスが高い地域。

2005年なんか毎月のように、スイス人旅行者、オーストリア人旅行者、家族で旅行中だったドイツの元外務副大臣が誘拐されている。

2008年には日本人旅行者2人も誘拐されている。

イエメンの邦人誘拐、無事解放の女性2人が会見 「命の危険は感じなかった」

日本人の件も含めて全部、政府に拘留されている同じ部族のメンバーを釈放するよう要求するための人質にしたかったようで、全員無事に解放されている。

遺跡と化したマーリブ旧市街(写真)や、バラン神殿跡を見たが、残念ながらオレは誘拐チャンスに遭遇せず。

実際問題、護衛のイエメン兵がいることの方が怖い。下手にイエメン兵がいると銃撃戦になる可能性が高く、そっちの方が危ない。無抵抗で大人しく誘拐された方が銃撃戦に巻き込まれる心配がないのに。

「これを持っておけ」

イエメン兵にカラシニコフを渡されたんだが…逆に危ない気がする…

マーリブから砂漠を6時間ほどさらに東へ走ると、世界遺産にも登録されてる古代ハドラマウト王国の首都だったシバームがある。

別名・砂漠の摩天楼。

泥レンガで建てられた高層ビル群が砂漠の中に突如出現する。

シバームの東20kmほどにあるサユーンには、カスィーリー王国時代の王宮がある。

景色も建物も土色一色で、変化のないイエメンで白亜の建物は新鮮だ。

シバームやサユーンがあるハドラマウト県は北海道の2倍の面積があるが、ひたすらこんな景色が続くので飽きる。

ハドラマウト名物は『とんがりコーン女子』である。

Embed from Getty Images

ニカブを着て全身黒装束なのは他でも同じだが、頭にとんがりコーンを被っているのはハドラマウトだけ。

Embed from Getty Images

砂漠地帯で、直射日光がえげつないので頭に熱がこもらないように帽子を高くしてあるらしいが…太陽光を吸収しやすい黒一色で全身を覆っていることで帳消しになってる感。

部族社会

イエメン・タイムズ紙に『牛を差し出す – 部族間調停の仕組み(英語PDF)』という記事が載ったことがある。

2013年5月、イエメン北西部のハッジャ県のとある部族長(シェイク)が国営電力会社の社員と口論になり、ジャンビーヤを使って社員を脅迫した。

その結果、電力会社はその部族長の地域の電気を1週間遮断。

シェイクが電力会社の前に牛を置くと、シェイクの謝罪とみなし電力会社は電気を復旧させた。

一応、ここ数十年くらいのイエメンではジャンビーヤは武器というより“男らしさ”の象徴としてのステータス的なものになっていて殺傷能力はほぼないんだけど、軽々しくジャンビーヤを抜刀する行為自体がご法度。

オレもジャンビーヤを持って舞う伝統舞踊アル・バラア以外でジャンビーヤを抜いているところを見たことがない。

ジャンビーヤを使っての脅迫は、電力会社がブチ切れて電力遮断するに十分な理由になる。

記事内では、イエメンにも法律があって裁判所もあるが、口論から殺人まで紛争の90%が部族司法制度によって解決されていると書いてある。

殺人の場合も、血の代償として被害者家族に賠償しなければならないが、部族によって血の代償額が違うらしい。ジャウフ県の部族は約370万円だけど、マーリブの部族は約3700万円とか。

他には、こんなことも…

2013年12月、白亜の王宮があるサユーンで、軍の検問を無視して通過しようとした地元の有力部族長が護衛と共に射殺された。

イエメン政府とハドラマウト部族連合の間でこの事件を巡って交渉の末に和解合意。

イエメン政府は被害者一族に約10億8千万円の賠償金、新車20台、カラシニコフ200丁を支払った。

怖そうな国だが、本来は“客人”である旅行者にはすごく優しい国だ。これはイエメンに限らずアラブ世界に共通していることだけど。

今まで行ったことのある国の中でイエメンが一番好き。

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