記憶は薄れゆくが、記録はずっと残る。
記録を基に書く1995年の旅、全3回。
きっかけ
そもそも中国と韓国に興味があったのかどうかで言えば…
全然ない。
なぜ初海外旅行先として中国と韓国を選んだかといえば、飛行機に乗ったことが一度もなかったオレとしては『船で行ける外国』だったというのが大きい。
あとは…中国という国そのものがオレの中では「社会主義だか共産主義だかを信奉してる人たちが、だっせー人民服を着てチャリンコに乗ってウジャウジャいる超胡散臭い国」というイメージだったのも選んだ理由だ。
元々がひねくれ者なので、日本人にとってメジャーな外国(とオレが思っていた国)は選択肢に入りすらしていなかった。
「初海外がアメリカ?ただのミーハーじゃん!!」みたいな思考回路である。
高校生ながらなんとなくは、日本が属する“西側陣営”と、それ以外の怪しい“東側陣営”があることは認識していたので、あえて“こちら側”ではなく“あちら側”に行ってみるというのはチャレンジャーな気がしたのだ。
行動原理が「皆がビビっちゃうようなところでもビビらずに行けちゃうぜ、オレは」という、ガキならではものだったわけ。
高校2年生の時、冗談でそんな怪しい“あちら側”に「1人で行ってくるぜぃ!」と吹聴していたら、意に反して話が広まってしまいピンチに。
え…ホントにオレが中国に行く前提で話が広がっておる…
プルプルしながら思わず肯定してしまったが最後。
ホントに行かないと「口だけで本当はビビッてんじゃねーの?」と思われるのは確実な状況に陥ってしまった。
ビビッてねーし!ホントに行ってやるし!
全部自分で調べて、日本から船で中国、船で韓国、船で日本に帰って来る旅計画を立てた。
そもそも日本国内すら1人で旅行したことがなかったので、『ホテルの予約』とか発想すらなく、行く手段さえ分かっていればあとは何とでもなると思っていた。
旅資金は引っ越しのバイトで貯めたお金。
「よく親が許したね」と行く先々で言われたが、特に反対されず逆に「いいんじゃない?」って感じだった。ちなみに両親とも海外に行ったことはなく、我が家でパスポートを取ったのはオレが初めて。
当時、神戸と天津を2泊3日で結んでいた『燕京号』という貨客船があり、二等Bで29000円、これを高校の学生証を使って学割で26100円で買った。
船内で中国のビザを申請をして、下船時にビザが発給されるという不思議なシステムで、当時の中国のビザ代は11000円!!
外国初上陸
燕京号が接岸し、客船ターミナルが眼前に迫る。
船を降りた瞬間から人生初となる“異国”に上陸すると思った途端、急に緊張し出したのを覚えている。
高校生の“ノリ”の延長で中国に行くことになったが、船内にいる時もどこか夢見心地というか…現実感があまりない状態で、頭と体が別々だったのが急に頭も体も現実世界に引き戻されたような感覚だった。
入国手続きを終えた途端、何十人ものタクシー運転手たちに囲まれ、服やらカバンやらを引っ張られるオレ。
とにかく顔が近い!!
とにかく声がデカい!!
何を言ってるか全然分かんねーし、外国って怖ぇ~!と思って。
おうちに帰りてーーっ!!
この魂の叫びが、外国に初上陸した一発目の感想である。
「下船したばかりだが、乗ってきた燕京号で折り返し日本に帰っちゃおうかな…」と思ったのは事実だ。今でもこれだけはハッキリ覚えている。
いきなり中国の洗礼を浴びて、ビビり倒しているオレを窮地から救ってくれたのが写真の右に写っている日本人バックパッカー。
日本を出国直後だというのにすでに汚い…いや、年季が入った格好の彼。
天津港からタクシーで天津駅に行き、列車で北京へ向かい、北京で宿探しと、全てお任せコースで、オレは彼にただただ金魚の糞のようにくっ付いて行っただけ。
最初の数日はかなりお世話になっているにもかかわらず、全く名前を覚えていない。
たしか…彼は「ユーラシア大陸を横断してヨーロッパに行く」って言ってた気がする。
北京
北京には1週間滞在した。
宿は、かつてバックパッカーたちが集っていた京華飯店のドミトリーで1泊28元(当時で約340円)だった。
初めての海外で初めて泊まる宿が京華飯店のドミトリーというね…
正直、他人(お母さん以外)が握ったおにぎりが食べられないとか、友達の家で出されたコップに口を付けるのを躊躇する(袖でそっと拭く)とか、電車のつり革が触れないとか、そこそこの潔癖症だったオレ的には、京華飯店に連れて行かれてドミを見た瞬間はさすがにショックを受けた。
なんか…小汚い大人たちがいっぱいいるし…
そんな小汚い大人たちが「16才のバックパッカーがいる!」と、わざわざオレのいるドミに見に来ていた。「ついに日本もここまで来たか…」とか言われて(笑)
それで気が付いちゃったのだ、「え?ただ中国に来ただけなのに、16才というだけで妙にチヤホヤされるぞ!!」と。
その後、現地の中国人たちにも16才というだけで心配されチヤホヤされたオレは学習する。
あえて自分の年齢をアピールすることでチヤホヤされにいくことにしたのだ。
よく「19才で世界一周中です」とか「70才で現役バックパッカーです」と自分の年齢をアピールしているやつがいるが、結局のところ根底にあるのは一緒だ。「19才なのにすごいね」とか「70才なのにすごい!」とか他人にチヤホヤされたいだけだから、あれ。
言い換えるなら、本人たちに自覚があるないにかかわらず「19才なのにすごいだろ?」、「70才なのにすごいだろ?」という気持ちを持っていることの裏返し。
だから、ただ「へー、あっそ」という反応をしてやるのが一番いい。
そうでもしなければ「えーっ、40才で中国に1人で来たの?すごーい!」とチヤホヤされない世のおっさんおばさんたちが浮かばれないだろ!!
なお、日記を見ると北京で『記者からインタビュー』という予定が入っているのが謎だ。
全く覚えていない…
上陸直後はビビり倒していたオレも、数日も経てば“異国”に慣れてきて、一人で北京市内をウロウロできるようになった。
見るもの全てが新鮮で、いちいちカルチャーショックを受けていた。
20代と思わしき“お年頃”の女性が、スカートを履いているのに股をおっ広げてウ○コ座りしているのをよく見た。
当然パンツ丸見え、である。
日本で同じ状況になったら興奮間違いなしのはずだし、16才なんてなかなか性に多感な時期にもかかわらず全く興奮しなかったのは、丸見えになっているパンツが「え?プロレスラーなんですか?!」みたいな…いかついやつだったからだ。
高級ホテルのロビーではファッションショーが行われており、スタイル抜群な女性モデルたちが颯爽とモデルウォークをしていた。
格好よく片手をあげてポーズを決めたモデルに目が点になってしまった。
脇毛ボーボーっ!!
とにかく中国人はビックリするくらいカーッ、ペッ!!と所かまわず痰を吐いていた。
キレイな女性がホテルのロビーで颯爽と歩きながら、カーッ、ペッ!!と真紅のカーペットの上に痰を吐く。
地下鉄で目の前に立っていたおっさんが、座っていたオレの股の間にカーッ、ペッ!!と痰を吐く。
そんなに痰って絡むもんですか?と思って。
え?中国人って喉が腐ってんの?と思って。
中国人のマネをして痰を吐きまくっていたオレが、捕まってめちゃくちゃ怒られたのが天安門広場の正面に見える毛主席記念堂である。
金額は忘れたが罰金を取られたことはハッキリ覚えている。
え?なんでオレだけ?!と、全然納得いかなかったから逆ギレしてみたがムリだった。
天安門広場では武装警察がウロウロしていた。
彼らの持っている警棒は先端部分にスタンガンが仕込んであって、それをバチバチ言わせながら人民を威嚇したり、何をやらかしたか?は知らないが人民を警棒でボッコボコにしてるのを見た。
こ、怖ぇーっ!と思って。
首都北京といえど当時はデパートといっても国営の友諠商店くらい。
当時の日本では『痩せる石鹸』という謎の中国製石鹸がブームを呼んでおり、おばあちゃんにお土産で買おうと友諠商店に出向いた。
商品を手に取ることは出来ないので、店員に頼んでカウンターの向こう側にある棚から取ってもらう必要があった。
おばちゃん店員たちはおしゃべりしていて、何度呼びかけてもガン無視。
しつこく呼びかけると、舌打ちをしながら商品を投げてよこすというね…
こ、怖ぇーっ!と思って。
基本的に客なんか無視するという社会主義サービスに風穴を開けたのが、資本主義の先鋒マクドナルドである。
3年前の1992年にマクドナルド北京一号店がオープン。
レジが20台くらいずらーっと並んでる圧巻の店内で普通にビビった。友諠商店のおばちゃん店員は絶対にやってくれないスマイル接客という革命的な対応で、長蛇の列だった。
北京から少し足を延ばして万里の長城にも行った。
バスの車窓から見ていてえっ?!と思ったんだけど、万里の長城って未だに造ってんだ?!
修復とかじゃなく…普通に造ってやがる。
最近『万里の長城の「新築」は禁止 中国政府が方針』というニュースが出ていたが、いやいや1995年当時から新築してたぜ。
これはアフリカから日本に帰って来る時に寄った甘粛省にある万里の長城の西端・懸壁長城。
ビックリするくらい“新築”…