第10話に続く第11話。
カリマンタン
インドネシア第2の都市ジャワ島スラバヤから船で1泊2日かけ、カリマンタン(ボルネオ島)のバンジャルマシンに上陸。
By Sadalmelik, GFDL or CC BY-SA 3.0, from Wikimedia Commons(都市を追記改変)
野生のオラン・ウータンが生息する赤道直下の熱帯雨林に覆われた島だ。
ボルネオ島のインドネシア側の呼び名を『カリマンタン』と言い島全体の70%以上を占めるが、残りをマレーシアとブルネイの2カ国が領有している。
バンジャルマシンに上陸したオレは、カリマンタンを反時計回りでバリクパパン、サマリンダと北上していき、国境を越えてマレーシアのサンダカンに入る。約2カ月後にマレーシアのクチンから南下してポンティアナックに入って再びインドネシアに戻って来るけど…
オラン・ミンタミンタ
バンジャルマシンから石油の町バリクパパンまでは、なぜか車内を小鳥がピヨピヨ飛び回っているバスで12時間。
車窓からの景色で興味深かったのが、オラン・ミンタミンタ(物乞い、乞食)たちが虫取り網を持って道路の真ん中に立っていることだった。
他の島では信号待ちの時に、新聞売りや物売りたちと一緒にオラン・ミンタミンタたちも車に近づいてくる。例えば、ジャカルタ市内の信号待ちはこんな感じだ。
この写真に写っているのはほとんど新聞売りだが、左車線の前から3台目のタクシーの周りにいるのがオラン・ミンタミンタだろう。
ところが、カリマンタンの主要幹線道路は他の島々のように信号がなく、ただただ真っ直ぐに続く一本道で車が止まらない。だから、オラン・ミンタミンタたちは走り去る車から投げられたお札をキャッチするために虫取り網を持ってスタンバイしているのだった。カリマンタン以外では見た事がない。
試しに最少額紙幣の500ルピア札(当時8円)を窓から飛ばしてみたところ、おっさんミンタミンタが2人で競って虫取り網を振り回しながら“蝶々を追いかける子供たち”のようにトリッキーな動きをするお札を追いかけて行った。
蝶々を追いかける子供くらい必死ではあったけど、全然微笑ましくない。
インドネシア語
ちなみに、オラン・ミンタミンタ(Orang minta-minta)はオレが単語として好きなインドネシア語のひとつだ。
オラン(orang)は『人』で、オラン・ウータン(森の人)やオラン・ジュパン(日本人)のように使い、オランオランと重複して使えば複数形になって『人々』になる。あのインテリア雑貨ショップみたいだ…
ミンタ(minta)は『ちょうだい』とか『お願い』とか相手に何かを頼む時に使い、カフェで「ミンタ・コピ(コーヒーを下さい)」のように使ったりする。
つまりオラン・ミンタミンタは…ミンタを2回重複して使っているので、ただの『ちょうだい言う人』ではなく『めっちゃちょうだいちょうだい言う人』=『物乞い』なのだ!
まさに字義通り、やたら「ミンタ、ミンタ」言ってくるぞ。
でも…オランオランは『人々』だから、オラン・ミンタミンタを複数形にする場合はオランオラン・ミンタミンタになるんだろうか?と思ったが不正解だそうだ。『たくさん』を意味するバニャ(banyak)をくっつけてバニャ・オラン・ミンタミンタ(たくさんの物乞い)と言う。
未遂事件
さて、バリクパパンでオレは死にそうになっていた。
考えられるとすれば…バンジャルマシンで川辺に落ちていた魚を見つけ、周りにいたインドネシア人たちと一緒に焼いて食ったことくらいしか原因が思い当たらない。
ちゃんと焼いたんだけどな…
あたり方から推測するに腐ってたっぽい!!
「そもそも魚屋で働いていたなら、それくらい見分けられるんじゃ…」的なクレームは一切受け付けない。
病院に行っていないし、熱を測っていないので分からないが、目を開けてるとユラユラと視界が歪むし、頭が朦朧として思考停止状態だったことを考えると40度以上出てたかも。
嘔吐と高熱に加えて下痢も深刻だった。こうなったら致し方あるまい…あまり飲みたくなかったがクプクプ(蝶々)印の『タイピンサン』を服用。
このインドネシアの薬は結構強力で、軽めの下痢なら逆に便秘にしてしまうくらいの威力がある。ただし、体調が良くなるわけではなく…逆に変な感じにお腹が痛くなるので、オレは「これってただの凝固剤じゃね?」と思っていた。(※個人の感想であり、実際の効果・効能を示すものではありません)
ところが“あの”タイピンサンでさえ効かない!!
もうダメだ…オレ死んじゃうかも…
超絶弱気になったオレは初めてホームシックにかかり、実家の母親に電話をした。ま、残高が沢山残っているテレフォンカードを偶々道で拾ったというのもあるんだけど。
ちなみに、弱気になって「日本に帰りたい」と思ったのは後にも先にも10年間でこの1回だけなので、それだけ体調が悪かったのだ。
昼夜も分からなくなるくらい部屋にこもってベッドとトイレを往復する日が数日続いた。嘔吐のピークは最初だけだったが、食欲がないので買いだめしたリポビタンD(インドネシアでも売られている)だけを飲む毎日という負のスパイラル。何かを食べないと体力が落ちていくとは分かっていても食べられないのだ。
こもっていた部屋はシングルルームで、セミダブルのベッドがぽつんと置かれた以外にトイレとマンディだけが付いているシンプルなものだった。マンディはシャワーではなく、水浴び用の水が溜めてある大きな桶から柄杓ですくって浴びる。大抵、桶の中にはボウフラが湧いていて浴びるのに勇気がいるのはインドネシアあるある。
そんな部屋のベッドの上でオレが孤独に死にかけていた時、何やら下半身に違和感があって意識が戻った。
頭だけ起こしてみると…
おや?知らない男がオレのティンコを咥えてる…
ついに幻覚ですか?
すぐトイレに行けるようにパンツ一丁で寝ていたのが裏目に出て、スルッと下半身剥き出しにされてお兄さんに咥えられているオレ。
だが両刀ではないこのオレが、女の幻覚を見るならまだしも男って…ありえないでしょ。
一応、声をかけてみた。
返事が返ってきたところをみると、残念ながら幻覚ではなく現実のようだ。男は宿の従業員で、オレが弱っているのを知って合鍵で部屋に侵入してきたのだった。
全然気が付かなかった…しかも、知らぬ間にパンツまで脱がされてるし!!
だがそれを知ったところで怒るとか、取っ組み合いしてでも口論してでも追い出して状況を打破しようとする気力すらなく、一刻も早くこの状況をやり過ごしたい…それだけ。
ただただ「早く出て行ってもらって、そっと寝させて欲しい」と思ったオレはお願いをした。
マジでミンタ(お願い)だから!! 元気になった後で来てもらえれば、取っ組み合いでも口論でも幾らでも相手にするからさ…今だけはとにかくそっとしておいて欲しい。
だが、そんな下手に出てのお願いも虚しく奴は自分のズボンを脱ごうとベルトを外しながらこう言い放ったのだ。
けっこう衝撃的だったので、今もあの言葉を覚えている。
enak(エナッ)は『美味しい』という意味もあるが『気持ち良い』という意味もある。まぁ、この場合は「オレは美味しいよ」でも「オレは気持ち良いよ」でも意味は分かっちゃうけど…
大体、今のオレは酷い下痢だぜっ!! えっ、もしかしてそっちの性癖も併せ持ってる系?
本気でヤバいと思ったオレは仕方がないので…
サクッとナイフで刺した。
刺される前に刺す!的な。
ナイフと言っても刃渡り5~6cmの十徳ナイフであって柳刃包丁ではない。柳刃包丁は刃を守るために新聞紙でグルグル巻きにして寝袋の中にしまっていたので、すぐには取り出せない。いつも護身用に持ち歩いていたビクトリノックスの十徳ナイフは寝る時も枕の下に置いており、それで奴の腿を刺したのだ。
本気でやってないから傷も浅いし、正当防衛だから警察を呼ばれても構わない。今をやり過ごすにはそれしかなかったのだ。
奴を部屋から追い出すことに成功したオレは、ドアの前にベッドを移動させてバリケードを築いて次回の侵入に備えたうえで再び眠った。絶対に警察を呼ばれるだろうと思っていたが、意外なことに奴は呼ばなかった。きっと奴も奴で同性愛者であることがバレるとリスクがあるから呼べなかったのだろう。一応、アチェ州以外では同性愛自体は合法ではあったものの当時は今よりも世間の目も厳しかっただろうからな。ちなみにアチェだけは厳格なシャーリア(イスラーム法)が適用されるので、今でも同性愛は公衆の面前でムチ打ち最高100回の刑。
レイプ未遂事件から2日後にチェックアウトした時に対応してくれたのは女の従業員だったが、彼女は何も知らない様子だったところをみると奴は“あの時のこと”を同僚たちにも言っていないとみた。
足を引き摺って歩く奴とは事件の翌日に一度だけ会った。知ってた?刺そうとした奴と刺した奴がばったり顔を合わせると、別れたカップルじゃねーのに何となくお互い気まずい雰囲気になるって。さすがに後日にもなって「おまえ、あの時はよくもオレのティンコを咥えやがったな!」とは今さら恥ずかしくて言えないという被害者心理…
書くまでのことでもないが、奴の口撃を受けながらも当然のごとく勃たなかったことがオレの自尊心の支えとなっている。一部で「高熱のせいじゃないか?」という心もとない誹謗中傷もあるが、そんなわけはない。ひとえにオレの道徳心の高さゆえの賜物だろうよ!
この際だからその問題の宿の名前をネットに晒してやる。
それは『ペンギナパン・シナール・ルマヤン』だっ!!
住所はバリクパパン市内のジャラン・ジェンデラル・アフマッド・ヤニ(アフマッド・ヤニ将軍通り)のNo.49だ、バカやろう!!
ググってみると今も営業しているようだ…
インドネシア出国
石油の町バリクパパンから木材の町サマリンダに移動したオレは、さらに北上を続ける。
当時はサマリンダより北はマレーシアとの国境まで道がなく、木造船を乗り継ぎながら行くしかなかった。
まずはサマリンダからブラウというよく分からない町まで25時間。
そこからタラカン島に渡る船を探していると「最近道路が出来たので今はタラカン島行きの船はブラウからではなくタンジュン・セロールから出ている」という情報が…
タンジュン・セロールってどこ?!と思いながら、地図にも載っていないジャングルの道路をバスで3時間。バスを降りた時には鼻の穴の中までホコリだらけになっていたと日記に書いてある。
ちなみに、タンジュン・セロールで出会ったお婆さんは、オレが日本人だと知ると覚えている日本語を一生懸命話そうとしたり昔の日本の歌を歌ってくれた。
日本兵に教わったのだと言う。ずいぶん遠くまで来てたね、日本軍も。
タンジュン・セロールから船でタラカン島、さらに船を乗り継いでヌヌカン島、さらに船を乗り継いで国境を越えてついにマレーシアのタワウに上陸。
国境を越えて新鮮に感じたのは、町中に漢字が溢れていること。当時のインドネシアでは中国語は法律で禁止されていたので町中で見ることはなかったのだが、マレーシアに入った途端に中華系が多くなって漢字の看板はあるわ、中国語が飛び交っているわで…おかげさまで東アジア顔のオレも目立たなくなり、町を歩いているだけで喧嘩を売られることはなくなった。