1998-2000【17】デジャヴ

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第16話に続く第17話。

基本的に、他人にかつての若かりし頃の話を晒されても「知らんがな!」と思ってしまうタイプなので、自分が同じことをするのに抵抗がないわけではないが…どうせ誰もこんなの読んでないでしょ?という前提で、昔の戦時中の話を語り出すジジイになったような心境で書く。

サル期

プレステを買って旅人からゲーマーに転向したオレだが、引きこもっていたのは昼間の話。

夜に関しては毎晩のように飲み歩き、正直…かなりサルっていたのも事実だ。

これは20才前後の“お年頃”だったことを考慮すると、もう致し方のないこと。

両ひざに絆創膏を貼り、痛くて曲げられないからロボットのように歩いていた『両ひざ負傷事件』もこの頃の話だ。

知り合った女とそのまま彼女の部屋に行くことになった。

プラカノン市場という下町感が溢れ過ぎな市場があり、当時その周囲にはボロボロのタウンハウスが立ち並んでいて個人的にはあまり足を踏み入れたくない場所だったが、彼女はそんなタウンハウスの一角に住んでいた。

後にも先にもあの一回しかプラカノン市場の中に入ったことはない。

外見もボロボロだったが中に入ってさらに驚いた。厚めのベニヤ板が壁の2.5畳くらいの極狭な“部屋”に、彼女は女友達と2人でシェアして住んでいた。家具らしい家具はひとつもなく、マットレスすらないので寝る時はカッチカチのタイル床にタオルケットを1枚だけ敷いた状態で寝る。タオルケットごときでは床の固さは一切軽減されない。

そもそも極狭な部屋なので、やってる真横では女友達が寝たフリをしている。

友達がかわいそうだから、ここは平等に…

思わず親切心が溢れ出て平等に2人と交互にやったら、対戦相手が1人から2人になったことで両ひざをカッチカチのタイル床にダブルスコアで打ちつけ過ぎて…タイルは割れなかったが皿が割れるんじゃねーか?ってくらい両ひざがボロボロになって流血。

両ひざ故障で全治1週間って…アスリートか?!みたいな。

痛さのせいで両ひざを曲げずに歩くという怪しい動きをしていたオレを最初は心配してくれた友達も、理由を知った途端に急に冷たくなった。

「え?アホなの?」

いや、アホではない。優しさゆえの負傷だ。

真面目だからフーゾクに行けない体だと書いたことがあるが、原因は道徳的にどうこうの話ではなく、20才前後の人生で最もサルってた時期をバンコクなんかで過ごしたせいだ。

「おっさんだから金を払わないと女とやれないんだろ?」と、タイへ買春にやってくるおっさんたちを完全に見下していた若かりしあの頃。

ある意味で『若さ』を自分のプライドの一部として取り込んでいたとも言えるが、それが心のどこかで「金の力を借りて女とやるのは若さを失った奴がやること」という偏見へと変わり、逆に自分にとっては呪縛となった。完全に心因性である。

女に入れ込んで金を貢いでいるおっさんたちも冷め切った目で見ていた。

昔、トンローのソイ13はホームプレイス横のビルに入っているカラオケで働いている女Aにハマっていた駐在員のおっさんがいた。

ある日、全然知らない日本人から彼の携帯に電話がかかってきた。

私は騙されてAの田舎に家を建ててしまいました。色々な男を騙しているようなのでAには気を付けて下さい

電話をかけて来たおっさんは、騙された腹いせにAの携帯のアドレス帳情報を盗み見して、入っている日本人全員に電話をかけまくって注意喚起(?)していたのだ。

そのおっさん、Aが携帯2台持ちということを知ってか知らずか、きちんとビジネス用携帯のアドレス帳情報だけしか見ていないようであった。

オレにもかかってこないかな?

ワクワクしながら待っていたのだが、結局かかってこなかった。家を買っちゃうくらいAのことを良く知っていたなら、携帯のもう1台くらい把握しておけよ!とは思ったけど。

正直いって彼女のビジネスサイドの顔を知らないが、「色々な男を騙している」という割にはトンロー・ベンツの裏にある大したことないアパートの1階に住んでて生活も全然派手ではなかったけどな…貯金派だったんだろか?

オレの偏見的基準で言えば、おっさんたちの仲間入りを果たした今のオレならAのビジネス用携帯に登録され、騙されたという日本人からきちんと注意喚起の電話がかかってくるはずだ。

シャーロット

さて、バリ島で知り合ったオランダ人のシャーロットがタイにやって来て、なんだかんだで付き合うことになった。

バンコクのオレのマンションを拠点にして、タイ国内やマレーシアなど一緒に旅した。この時に、オレにとっては二回目となるカンボジアにも行っている。

カンボジア

2年半前にカンボジアに行った時と決定的に違っていたのは、タイからカンボジアに陸路で行けるようになっていたということ。タイ側はアランヤプラテート、カンボジア側はポイペットの国境は、確か1998年の3月か4月に正式に外国人に開放されたはず。

1999年末のポイペットの様子。左手のタイから輸入してきたであろうタイヤを台車に山ほど積んで、右手のカンボジアに向かって人力で引っ張っている人たち。

ポイペットは、ただのド田舎の村だった。

国境からアンコール遺跡のあるシェムリアプまでは、ピックアップトラックの荷台で荷物と一緒になって7時間かけて行った。

しかしポイペット・シェムリアプ間の道路は想像を絶する悪路だ。よくもここまで悪くしたな、というような道路だ。多分だけど地雷か爆弾で吹っ飛んだ跡じゃないかと思う。そんな穴が無数にあいている道を7時間かけて通るのはめちゃくちゃしんどかった。後でお尻を見たら青アザが出来ていた。

どうやったらこんな穴になるのか?不思議なくらいの深さ1m以上の穴が無数にあいている道。写真は暗闇過ぎてほぼ何も見えないが、真ん中で車が穴にハマって動けなくなっており、皆で助けながら走るので恐ろしく時間がかかる。

ようやく辿り着いたアンコール遺跡…

二度目となるカンボジアの情勢は激変していたが、アンコール遺跡は変わらずだった。

1997年当時は護衛の兵士を雇って狙撃兵にビビりながら行ったバンテアイ・スレイは、1999年にはレンタルバイクで手軽に行けるようになっていた。

アンコール遺跡の中でレリーフが最も精巧で美しいバンテアイ・スレイ。

過去写真を振り返ってみたら、1997年にも同じ場所で写真(下)を撮っていた。

タ・プロームの守り人だったニエムおじいちゃんの在りし日の姿も写真に撮っている。

自発的にボランティアとして1940年代から(ポル・ポト政権時代を除いて)毎日タ・プロームを掃除していたニエムおじいちゃん、2009年に亡くなった時には欧米でニュースになった。

ニエムおじいちゃんは90年代の有名人だ。

今日は首都プノンペンに移動する日。前回はスピードボートでトレサップ川を下るしか方法がなかったが、今はボートの他にミニバス、ピックアップトラックもある。ボクらは一番安いピックアップトラックでプノンペンに行くことにした。さすがに荷台はしんどいということで車内に乗る。ちなみに荷台は4USドル、車内は6USドル、ミニバスは9USドル、スピードボートは25USドルだ。ところが、さすがはカンボジア、楽は出来なかった。車内に人を詰め込むだけ詰め込んで出発。4人乗りの車に8人が乗るんだからイカレている。運転席に2人、助手席に2人、後部座席に4人…めちゃくちゃ狭かった。じゃあ荷台の方が良かったかというと、それもない。途中から激しいスコールで、荷台は大変なことになっていた。予定では6時間で着く予定だったのが、9時間もかかった。

厳密に言えば、1997年当時にもスピードボート以外にも選択肢はあるにはあった。ただ陸路移動が危険過ぎて、実質的にボートの一択だった…という話だ。

2年半という時間の経過が驚くような変化を遂げていた…と言っても、所詮はどちらも20年前の話。「変わった…」と日記に書いてある割には、写真を見てみると“90年代のカンボジア”であることに大きな違いはない。

首都プノンペンの変貌ぶりにも驚いているようだが、それでもまだ“東南アジアの辺境”感はぬぐえない光景だ。

カンボジアからタイへは、シアヌークビルを経由して海路でココンへ。タイとの国境を越えてハートレック、トラートを経由してバンコクへ戻った。

この時を最後に、カンボジアには行っていない。

デジャヴ

後日、オランダに帰国した彼女から国際電話があった。

生理が来ないの…
ふぇっ?!

こ、これは…デジャヴ?!

過去の出来事が走馬灯のように頭をよぎって冷や汗が…

絶対にカンボジア製のゴムのせいだと思う

でも…彼女が「メイド・イン・カンボジアのゴムは信用できない」とか言うから、1枚ですら既にぶ厚いカンボジア製ゴムを2枚重ねにさせられて、ほぼ“何やってるのか分からないくらい”感触ゼロのコテカ装着状態だったのに?!

そして…

オレは悩み倒した末に、ようやく…

腹をくくった。

分かった、もし出来てたら責任を取ってオランダに引っ越すよ

あの時、もし本当に出来ていたらオレはオランダに引っ越して彼女と結婚していた。そういう話になっていた。引っ越していないということは、結果的に出来ていなかったということだ。

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