1998-2000【1】旅立ち

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昔ブログに書いたのに消えてしまったのと、薄れゆく過去の記憶がまだ残っているうちに再び書いてみようかと。日本を出てからタイで働き始めた頃までの話。

プロローグ

16才で初めての海外旅行として1人中国と韓国に3週間行った時も…

17才で2回目の海外旅行として高校の同級生みのくんと2人で中国と英国領香港とポルトガル領マカオに1カ月行った時も…

18才で1人「エベレストに行ってくる!」とネパールを含むアジア6カ国に1カ月強行った時も…何も言わなかったというか、逆に「行っておいで」と言っていた両親だったけど、19才の時にこう宣言した時は許してくれなかった。

もう日本には帰ってこない。これからは海外で生きていく

両親の言い分としては「20才になるまでは親として監督責任がある。20才を過ぎたら自分の好きなように生きたらいいが、未成年のうちはダメだ」というもの。

正直いうとそれまで高校卒業後の進路には迷っていて、明確な目標もないのにただ漠然と“周りのみんな”に合わせて大学進学するのは、最も若さと行動力に満ち溢れている貴重な時期に4年間という決して短くはない時間を無駄にするように感じていた。どうせダラダラと大学に行って、そのまま流れでサラリーマンになって、「老後に好きなことをするために今は一生懸命働くんだ!」と自分を無理やり鼓舞しながら社畜として働いて、いざ老後になってみたら体のどこかしらが調子が悪くて好きなことも出来ずに死んでゆく。そんな人生なんてクソだせぇ!と一人息巻いていた。

進路としては「これからは中国が面白いかも」と思って北京の大学への留学を考えて資料を取り寄せたり、南米への移住の前段階としてグアテマラへの語学留学を考えたりしていた。

北京への留学はけっこう本気で考えていて独学で中国語の勉強をしたりしていたから、あの時もし留学を選択していたら今のオレはどうなっていたんだろう?と思うことはある。

ただ、結果的に中国を選ばなかった。

オレはわずか8カ国しか行ったことがないのに、もう方向性を決めてしまうのは時期尚早に思えてきたのだ。世界には37億人もの女性がいるのに、中学校の時に付き合っていた女と卒業後に結婚しちゃうくらいもったいないことのような気がした。お前がたかだか10何年生きてきて知り合った女なんて世界の全女性の何%だと思ってるんだ? 小数点以下何桁の小さな小さな出会いの中でよくも早々に人生の伴侶を選べたもんだな!と。もっと世界を見てから結婚相手(=移住先)を選んでも遅くないのではないか?

とりあえず、1年くらいかけて世界中を旅してみてそれからゆっくり決めればいい。

16才で初めて海外に行って以来、旅はオレにとって麻薬のような存在になってしまった。あの時の衝撃や興奮をもう一度味わいたいと思って翌年も中国に行ってみたが、1回目ほどの効き目はもうなかった。ドラッグの種類を変えてみようと東南アジアを吸引してみたが、やはり1回目ほどの効き目はなかった。キメてる時間の問題なのか?と無期限で全種類(=世界中)を試してみたら、また1回目に味わえたような衝撃や興奮を体験できるのではないか…まさしく麻薬中毒者と同じハマり方をしていたのだ。

両親は「20才になったら自分の好きなようにしていい」と言っているが、20才になるまで待っている時間さえ惜しかったオレは、高校を卒業してから魚屋で働いて貯めた130万円と刃渡り30cm弱の柳刃包丁を片手に持って強引に日本を飛び出した。半分家出みたいなもんだ。

スタート地点はタイのバンコク。場所の選定には深い意味はなく、西回りの世界一周をする場合はバンコクがスタート地点としては定番だった…ただそれだけのこと。あと当時は円安ドル高だったので、東回りだと北米・南米などドルが強い場所からスタートする羽目になるので、西回りで旅をしながら円高に進むのを待つ意味合いもあった。お金を稼ぎながらゆっくり世界を見てまわればいい、そう思っていた。

魚屋さん

日本を出るまで働いていた魚屋は小売りではなく、ホテルや料亭に魚を卸したり、板前さんの代わりに船盛を作って納品しているような水産会社だった。オレとしては刺身を美味しいと思ったことはなかったし、鮭以外の魚は違いも分からないくらい魚に対して一切興味がなかったのだが、『配達ドライバー募集』という求人に「船盛を運ぶだけでしょ?楽そう!」と思って働くことにしただけだった。

面接の時に「旅の軍資金を貯めるためだけに働くので1年で辞めます」と正直に言ったにもかかわらず、なぜか受かってしまった。

ところが、初出社してみたら「はい、これお前の柳刃包丁!」とマイ包丁が準備されていて、「いやいや聞いてねーし! それにオレ、魚を怖くて触れない人だし! 魚臭いの嫌だし!」と駄々をこねてみたものの、皆になだめすかされて嫌々魚を触る羽目に…

そこから練習として毎日アジ数百匹をひたすら三枚おろしさせられ、三枚おろしを覚えたら次はタイの三枚おろし、次はカレイの五枚おろしと謎のステップアップをしていくオレ。

触れなかった魚をさばけるようになると徐々に調子に乗って来て「オレの包丁さばきで海外でも生きていけるぜ!」とマイ柳刃包丁を持って旅に出ることにしたのだ。どうやら社長は本当に辞めるとは思っていなかったらしく「成人式のスーツを買ってあげるから」とか、エサにならないエサで釣ろうとしてきたがオレの決意は全く揺るがず。

ちなみにオレの経験からひとつ言わせてもらうと、柳刃包丁なんかを持って海外旅行はしない方がいい。

KATANA!!

入国の度に税関で止められ「いや、刀じゃないんです、包丁なんです」と説明をするのがめちゃくちゃ面倒くさい。邪魔になって1年後に実家に送り返した。

旅立ち

1998年7月3日(金)、いよいよ人生で初めて親元を離れて独り立ちする日。

朝6時に家を出て、2時間半ほどで成田空港に着いた。移動中なんだかわからないけどちょっと緊張してきた。
搭乗手続きは包丁を持っていたせいで時間がかかったが「規制品預かり」という形で搭乗員に預かってもらうことになった。
その後イミグレーションでパスポートに「出国」とスタンプを押された。いよいよだ。じわじわと実感が湧いてくる。時間はたっぷりある。まず何をするかゆっくり考えることにしよう。
それにしてもビーマン・バングラデシュ航空に乗る人たちを見ていると皆金がなさそうだし、怪しそう。ボクだけがまともだ。
そんな怪しい人たちを沢山乗せた飛行機は予定より20分遅れて成田を飛び立った。席についてふと上を見たら、壁のネジがかなりゆるんでいる。それも1つ2つどころではない。大丈夫かな。
まぁ、3万2千円だったからしょうがないけど。

親元を離れて上京すべく、10時間かけてビーマン・バングラデシュ航空でバンコクに向かう。

バンコクに着いた翌日には、オレはワールドトレードセンターの6階にあった『鎌○山』という日本食レストラン(今はない)を訪問した。

実は、東京のタイ大使館でタイのビザを取った時に同じくビザを取りに来ていた『鎌○山』の板前さん二人と知り合ったのだ。

バンコクって仕事ありますかね?
あるよ!うちにおいでよ!

当時19才だったオレに社交辞令など存在しないので、本当に行ってやった。

すると、板前さんたちは姿を見せず代わりに店長とおぼしきおばさんが出てきた。

おたくの板前さん2人に、ここで働けるって言われて来ました!
あの2人はクビになってもうここにはいないんです。今はタイも不況でリストラしてるくらいだからゴメンなさいね

バレバレのウソまでついてもらって丁重にお断りされた。

ちなみに「味付けができる」とか料理が出来るならまだしも、「魚がさばける」ただそれだけで仕事を探すのは相当厳しいのではないか?とリアルな助言まで頂いてしまった。

まぁ、世の中が思っているほど甘くないことは織り込み済だったのでさしたるショックも受けず、バンコクで働くことは諦めてまずは旅をすることにした。

プチ情報だが、柳刃包丁を持って1年も旅していたにも関わらず、魚屋を辞めてから今まで魚をさばいたことは一度もない。三枚おろしの仕方などきれいさっぱり忘れ去っている。

独り立ちして3日目にラオスのビザを取得するなど精力的に動いていたオレは、4日目にして早くも事件に巻き込まれる。

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