噴火犠牲者碑
江戸時代・・・
西暦1780~1785年の間、青ヶ島の火山活動はとんでもないことになってたみたいです。
1783年、丸山を含む池之沢内の複数の火口から噴火し、池之沢にいた7~14名死亡。赤熱噴石が島中に降り注ぎ、家屋63戸が全焼。
2年後の1785年4月18日、丸山で大噴火。火炎と黒煙、降り注ぐ赤熱噴石と火山灰で「もう住むのはムリ!」となって、全島民避難することにして八丈島に救助を要請。
八丈島から船3隻で救助に来たところ、実は島民が全員乗れないことが判明。
船にしがみついてきた人の手をナタで切り落としたりして、130~140名を島に置き去りに(=死亡)。
どうやら船に乗れたのは我先に乗り込んだ人で、弱者である年寄や子供は乗り遅れたっぽい。
以後、50年にわたって青ヶ島は無人島になるのです。
島の地図を見ていると、そんな池之沢に『噴火犠牲者碑』なるものがあることを発見。
いくら苦渋の決断だったとはいえ、全村民の半数である130~140名が置いてきぼりにされて犠牲になってるわけですよ!!
おいっ、八丈島! 6隻で助けに来いよっ!!
と、八丈島のせいにしようとした奴もいたかもしれないけど・・・
やっぱり助かった方としては「申し訳ない」という気持ちで『噴火犠牲者碑』を建立したに違いない。
もしかしたら立派な碑じゃないかもしれないけど、気持ちがこもっているかどうかだからな・・・決して見た目だけで評価しちゃいけない。
青ヶ島とは何の縁もゆかりもないワタクシだが、ここはぜひ訪れて無念の中で噴火する青ヶ島で亡くなった島民たちのご冥福を祈るしかない!!
で、行ってました。
・・・あれ?
地図上では確かにここら辺なんだけどな??
見付けられなかったので、帰りにもう一度通った時に探そうと一回パス。
その帰り道でも見付けられず、パス2回目。
翌日、本気で探してようやく見付けました!!
それが、こちら。
ウソだろ、おいっ!?
正直そう思いましたよ、えぇ。
だって、全然『碑』じゃねーし!
そもそもから言うと、すんげぇ小っせーの!!
そのうえ、何の手入れもされてないから完全に周囲と同化しちゃってて、ウォーリーを探すよりむつかしかったわ。
眼を凝らして鳥居に気付いたから何とか見付けられたものの・・・この碑が存在する背景を考えると、
本当にこれでいいんですかね?
まぁ、当事者たちがこれでいいと思っているんだったら部外者であるオレがどうこういう話でもないですけど。
還住の碑
さて・・・50年も無人島だった青ヶ島ですが、佐々木次郎太夫さんという人が先頭に立って青ヶ島を復興するために奔走し、数々の困難を乗り越え、全村民の帰島を果たすわけです。
八丈島から青ヶ島へ”還住”したことを記念した『還住の碑』が集落に立ってます。
「オレが大き過ぎてみんなは船に乗れないけど、必ず帰ってくるから許してね(T_T)/~~~」
ま、まさか!!
説明をみると・・・『八丈島から青ヶ島に帰ってきた佐々木次郎太夫がモデル』ということで安心致しました。
『青ヶ島から八丈島に避難するときの様子の碑』だったら、『噴火犠牲者碑』に成り代わって飛び蹴りしちゃうとこでしたよ。
さて、オレの銅像コレクションに『佐々木次郎太夫』という新たな1枚が加わったわけですが・・・色々と気にはなりました。
まずサイズが小っちぇーのよ!!
写真では大きさが分からないんだけど、実物は『乳児を立たせた』くらいの大きさなんですよ。
そのくせ佐々木さんと船のサイズ比がおかしいことになってるし。
どうせなら30mくらいの高さの像をドカーンと建てて欲しかった。
あと・・・「ついに帰ってきたぞ!!」という喜びが佐々木さんからは感じられない。
こんなの、サウナで「お先に上がりまーす」って言ってる像って説明されたら普通に信じちゃいますよ、オレ。
この黄金のトルクメンバシュ像を見てくださいよ。
「50年ぶりに青ヶ島に帰ってきたぞーっ!!」感が、佐々木さんより強くないですか?
いや・・・
逆に「おかえり! 佐々木次郎太夫!!」って言ってるのかな?
いずれにしても「黄金の佐々木次郎太夫像が回転してる」とかだったら興奮できたんですけど、思っていたより小さくて地味で残念でした。