青ヶ島【5】歴史書

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「島史」と「生活と文化」

郷土資料の中に面白い情報があるかも?と思って、青ヶ島にいる間に図書館に行こうと思ってたんです。

ところが青ヶ島の図書館って開くのが14時半からで、しかも2時間半しか開いていない!!

結局のところ図書館よりサウナを優先したため行けなかったんですけど・・・

帰ってきて区立図書館のOPACで検索したら、青ヶ島村役場発行の『青ヶ島島史』(1980)と『青ヶ島の生活と文化』(1984)なる本を発見!

予約をしたら「貸し出し準備できたから取りに来い」メールが来て、図書館に行ったんです。

で、出てきたのがこれ!!

※青酎は図書館で貸し出していません。

ふつうに「うわっ・・・」ってなった。

1000ページ超えの本で、見た瞬間に読む気の失せるやつ。

どんだけお堅い内容の本なんだろ?とパラパラめくってみたら、その見た目とは裏腹にけっこう流し読み出来る本でした。

島の文化をページいっぱいに紹介している絵が、茨田茂平先生のゆるい絵だったりとか。

内容もなかなかの秘境っぷりを発揮していて意外と面白かった。

青ヶ島の人たちって、明治に改元されたことを知らなかったらしい。

昭和に改元されたことも昭和2年に知ったらしい。

遭難した高知の船の乗組員を村人総出で助けた時に「今、昭和だよ」って教えられたんだって。

まぁ、島の生活に明治も昭和も関係ないからな・・・

近年の主だった出来事を『島の生活史・図表』の抜粋も交えながらご紹介。

1955年:飛行機にて救援物資投下される。島にラジオ1台。
1956年:便所に屋根をつける家が多くなる。
1957年:五右衛門風呂普及。小2の女子児童、急性盲腸炎になり巡視船が急行。一刻の猶予も許さない状態だったため麻酔なしで手術
1959年:急患が出たため海上自衛隊のヘリコプター来島。村民総出で基地を急造して着陸させる。
1960年:飛行機にて救援物資投下される。森繁久彌、セスナ機で来島し機上から慰問品を投下。台風14号が着工したばかりの三宝港を破壊。
1961年:飛行機にて救援物資投下される。
1964年:初めてオートバイ入る。
1965年:最初のテレビ設置される。
1966年:電気送電開始(1日5時間送電)。
1967年:最初の軽自動車入る。
1970年:自衛隊ヘリコプター2機が米などをの物資を空輸
1971年:自衛隊ヘリコプターが物資を空輸

救援物資というのは、天候不良で船が1カ月以上欠航すると島の物資が欠乏するので飛行機で投下したとか。

ちなみに1955年ごろの日本って洗濯機・冷蔵庫・テレビが『三種の神器』と呼ばれていた頃らしいので、この頃の青ヶ島は本土と比べて10年くらい遅れてたっぽいな。

森繁久彌の慰問品投下が一番意味わからん!!

島の人間からしたら、上空のセスナに乗ってるのが森繁久彌かどうかなんて知る術がないし。

噴火の記述

で、借りた2冊の本には江戸時代の噴火のことも詳しく書かれていました。

青ヶ島諸覚』、『長戸路文書』といった記録に噴火の様子は詳しく書かれているらしく、江戸の時代も役人がお代官様に報告書を出したりしてたので”お役所の公式な記録”的に残っているらしい。

八丈実記』は、江戸で殺傷事件を起こした近藤富蔵さんが八丈島に流刑になって過ごした53年間に書き記した全72巻の記録。

まず、1783年の噴火。

3月9日夜、池之沢に直径362メールの大穴が開いてマグマが噴出。

真っ赤な噴石が吹き上がり、空中で砕け散って島中に降り注いだとか。

公式な記録では、噴火した時に池之沢の宿泊所にいた14人(男11人、女3人)が死亡。

ところが『八丈実記』だけは、近藤富蔵さんが奇跡的に噴火から逃げ延びた人から直接聞いた話として7人死亡にしているらしい。

奇跡的に逃げ延びた人というのが、与太郎さんという人。

与太郎さんは池之沢に湯を浴びに行っていたんだけど、村の集落がある岡部に『忍ビ妻』(人妻セフレ)がいて、その女に会うために夜一人で池之沢を出たために助かったと。

池之沢から岡部に行くには、こんな外輪山を越えて行かないといけないわけです。

オレなんか昼間の舗装された道路を歩いてゼェゼェいった山なのに、街灯もない江戸の夜にわざわざこの山を越えようと与太郎さんを突き動かしたエロの力っ!!

結果的に与太郎さんは己の悶々パワーで九死に一生を得たわけです。

「お風呂に入ったらマッタリしてきたから、セフレに会うのは明日でいっか・・・」

とかなってたら死んでたわけですから・・・エロいって命を救うんですね。

与太郎さんはその後、1785年の大噴火も生き延びて八丈島に渡り、30才で大工になり、70才にして棟梁になり、80を過ぎて亡くなったそうです。

「岡部に忍び妻がいた」とか・・・「30才で大工になった」とか・・・与太郎さん、個人情報だだ漏れ。

次に2年後の1785年の大噴火。

3月10日午前10時ごろから池之沢で噴火がはじまります。

噴火は次第に激烈になってゆき、火石を噴き上げ、島全体が昼夜の見分けもつかないほど暗闇に覆われ、地響きと轟音が鳴り響き、熱風で畑は全滅、水源には近づけない状態に。

そこで青ヶ島の名主(村長)は、八丈島のお役人衆にあてて申し立てをします。

「噴火が収まるまで青ヶ島の全村民を八丈島に引き取ってくだせぇ」と。

4月27日、八丈島から3隻の船が青ヶ島に救助に向かいます。

108人の男女、すみやかに船々に助け乗って急ぎ漕ぎ戻れば、乗り遅れて取り残されし老人幼児、火炎に焦がされ、煙にむせて岩の上に伏し、波に浮き沈みして助けてくれよと泣き叫べど、船は小さし人は多し・・・(八丈実記)

浜辺に下りて海の中に浸っていないといけないほどの熱の中、到着した3隻の船に早い者勝ちで乗り込んだ108人。

伝承によると、船べりにすがってきたものをどうしても乗せるわけにはいかず、ナタでその手首を切り落としたとのこと。

代官所に提出された記録では・・・

・40人は前々から八丈島に滞在中
・3月29日、9人が避難
・4月12日、八丈島から青ヶ島に状況調査に行った帰りに49人が一緒に避難
・4月27日、3隻の船で108人が避難

単純に当時の青ヶ島の人口343人から引き算して、137人の村人は青ヶ島に取り残されていたと。

誤差も考えて130~140人ってとこなんだろうけど。

ちなみに島に置いてきぼりにされた人たちのその後は誰も分からないそうで、3年後に八丈島から調査に行った時の報告に「生き残りがいた」という報告はないそうなので全滅したと思われる。

そんな・・・

そんな・・・

悲惨な最期を遂げた犠牲者たちを弔う碑。

ちーん。

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