第2話に続く最終話。
金橋号
かつて金橋号という貨客船が中国山東省威海から韓国仁川までを18時間で結んでいた。
今は新金橋7号が、同じルートを10時間で結んでいる。
当時、一番安い雑魚寝部屋が90USドルで、学割で20%OFFになった。
姜さんに見送られて中国を出国し、金橋号に乗り込んだ。
雑魚寝部屋でオレの隣に寝ていたのが李さんという韓国人のおっさんだった。
中古船舶を日本から輸入する韓国の貿易会社で働いているサラリーマンだという。
大人たちの反応を学習し予測する『日出ずる国からやって来たあざとい16才』ことオレが、いつものように松本伊代ばりに16才アピールをぶっ込む。
李さんの反応も、今までの大人たちと全く同じだ。
あー、はいはい。いつもの反応ね。
これまでの経験上、大抵の大人は16才が1人で初めての外国に行こうとしている状況を知ると心配になっちゃうらしい。
ほーら、段々心配になってきただろ?
あまり“しっかりしている子”感を出すと安心感を与えてしまい心配無用と捉えられてしまうが、自信あり気な言葉とは裏腹に少し不安げな表情をチラッと見せてあげると「この子、ホントに大丈夫かな?」と心配されやすいというのは、何パターンか試してみた結果の発見である。
これが俗にいうチラリズムでしょ?
まんまと心配になってきた李さんは、雑魚寝部屋を出て1等室にオレを連れて行った。
そこには李さんが勤める会社の社長である黄さんがいた。
今にして考えると…社長が1等室を取るのはいいとして、部下の李さんにもせめて2等室くらい取ってやれよ!って思う。どうせ2千円くらいしか違わないし、どうせ経費で落とすわけだし。一番安い雑魚寝部屋で、16才バックパッカーの隣に寝る羽目になったおっさんサラリーマンの気持ち!!
黄社長も他の大人たちと同じ反応を見せた。
黄社長は中古船舶を日本から輸入するという仕事柄、片言の日本語を話せた。
当然のことながら雑魚寝部屋より1等室の方が遥かに快適だったので、寝る時以外は黄社長の1等室に入り浸ってお菓子を食べたり、食事を取ってもらったりしていた。
ソウル
黄社長の命令で、オレが「ここに泊まる!」と言ったソウルの宿までタクシーで送り届ける羽目になった李さん。
それから数日は李さんがオレを迎えに宿まで来て、一緒にソウル支社(釜山が本社)に出社。
なぜかオレは黄社長に連れ回されて、客との商談に相席して横でちょこんと座って紅茶を飲みながらショートケーキを食うという…
え?何なの、この状況?!とは自分でも思ってた。
商談は韓国語だから何言ってるか分からないし、そもそもオレには関係ないんだけど、社長にくっ付いていれば「あれが食べたい!」って言ったら何でも食べさせてくれるから「ラッキー!」くらいに考えていた。
ソウルでの食事はほとんど社長のおごりだったから、全然食事代は使っていない。
これがいわゆるパパ活ってやつですか?
ちょうど『援助交際』という言葉が世に広まった頃(1996年の流行語大賞入賞ワード)のど真ん中世代で、同級生でもやってる女がいたが、どう考えてもオレの方がハイパフォーマーだ。おっさんに抱かれることもなく「ボク16才!」というだけでご飯代を全部出してもらってるんだから。
宿
ソウルでの宿は、事前に安宿情報として聞いていた旅館で1泊1万ウォン(当時は約1330円)だった。
部屋の写真がこれだ。
天井の高さが1mもないという…
階段の下の極狭なスペースを無理矢理に“部屋化”してるんだけど、ほぼホビットハウス状態。
しかもここ…泊まってから初めて知ったのだが、普通に連れ込み宿で隣や向かいの部屋から女性の喘ぎ声が聞こえてくるという、16才の純朴な少年には不健全な環境であった。
旅館の入り口でやって来るカップル客をジーッと観察していると、スーツ姿のおっさんと派手なお姉さんばかり。「このおっさんたち、プロの女としけこんだ後に自宅に帰って自分の子供に道徳について説教を垂れたりしてるんだろか?」と、いつものように大人たちを冷めた目で見ていた。
そう言って黄社長が釜山に帰って行ったので、本来の一人旅に戻ったオレは観光を開始。
旧朝鮮総督府
ソウルにあった旧朝鮮総督府の建物は、もう二度と見られない。
当時は国立中央博物館として使われていたが、オレが旅をした直後に爆破解体されたからだ。
そのため、上の写真のような姿は見ていない。
オレが訪れた時は尖塔部が取り外された後で、まさに解体準備の真っ只中であった。
まだ内部を公開していたので見ることが出来た。
重厚感のある建物を入ると吹き抜けのホールがあり、正面には近代洋画の巨匠である和田三造の壁画『羽衣』が見える。
板門店
北朝鮮との軍事境界線、通称38度線にも行ってみた。
当時、自国民であるはずの韓国人は板門店に行けなかった(1997年に解禁)ので、外国人旅行者しか行けない場所であった。
ツアーに参加しなければ行けない場所だが、北朝鮮の工作員2名が板門店を越えて韓国側に侵入したという恐ろしい理由で直近のツアーは全て中止になっていた。
一人は捕まったが、もう一人は未発見という状態での6日ぶりの再開で、その一発目のツアーに参加。
いやいや全員発見してから再開しろよっ!!
とは思いながらも、結局は行くんだけど。
最終的にもう一人の工作員って見つかったんだろか?
帰国
ソウルから特急セマウル号で釜山へ。
黄社長に電話して釜山滞在中の面倒を全て見てもらい、オレの韓国旅は終わった。
釜山の想い出は…特にない。
ここ釜山から釜関フェリーで1泊2日かけて下関に上陸し、帰国。
下関から一瞬だけ九州に上陸し、新門司から名門大洋フェリーで1泊2日かけて大阪南港まで移動。京都に寄った後に夜行バスで帰ってきた。
こうして全26日間の初一人旅が終わった。
日記として記録していないので、記憶に頼るしかないが…
中国と韓国の二カ国に行っておきながら、韓国に対してずいぶんとあっさりした記憶しか残っていないことから考えるに…韓国は16才のオレにとって“普通の国”だったのだ。
親切にしてもらったどうこうというのは別で、単純にインパクトの話。
別にニーハオトイレじゃないし、ムダに痰を吐きまくるわけでもないし、ちょっとでも隙を見せると列に割り込んでくるわけでもないし、駅に着いた途端に客引きの集団に囲まれて耳元でムダにでかい声でワーワー言われるわけでもないし、中国と比べちゃうと“普通”に旅行できちゃう国。
つまり、すんげーキャラが濃い中国でのファーストインパクトが強烈過ぎて、その後に行った韓国がずいぶんと薄味に感じちゃったのかもしれない。
今では信じられないかもしれないが、当時のバックパッカー界隈で『ハードな旅先』と言えば、中国はインドと双璧を成す曲者であった。そんな重要なことを事前に知っていたら初海外旅行先に中国なんか選んでいなかったが、無知というのは恐ろしい…
知らずに行っちゃったよ!!
ただ、キャラ濃すぎの国なのに自分の若さが意外な効果を発揮して皆がチヤホヤしてくれるという事実に気が付いちゃったもんだから…
あれ?中国旅とか余裕じゃね?と、調子に乗って自信を深めたのもまた事実だろう。
あともう一点が、親や学校に縛られて不自由を感じていた高校生が、誰の目も届かない外国に行ったことで満喫した自由が純粋にめちゃくちゃ楽しかったというのもある。自由のある国・日本で感じていた不自由と、一党独裁の社会主義国家・中国で感じた自由という一見矛盾しているような話だけど、あくまで”16才的な自由”という次元の話だ。
オレの中で、ニオイはくっせーのになぜか止められない中毒性のある食べ物みたいな感じで、好きかどうか?で言われたら決して好きというほどでもないんだけど、ついつい手が伸びちゃう的な存在になった中国。その証拠に…
おかわりするために翌年再上陸している。今度は上海から香港まで南下するルートだ。
臭いやつをわざと嗅ぎに行って「やっぱ、くっせー!!」とキャッキャ言いたいのと同じ行動原理である。