エチオピアの戦争にある背景

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高頻度でエチオピア情勢をアップしているが…

「内容がマニアック過ぎてよく分からないし、戦争の背景が分からない」という指摘があった。

そのうち池上さんが解説してくれるんじゃね?

と思っていたのだが、一向に解説してくれる気配がないので…

池上さんに代わってワタクシめが非常にざっくりした背景説明を。

エチオピア帝国

むか~しむかし、あるところにエチオピア帝国という国がありました。

『帝国』ってくらいだから、皇帝を頂点として「以下、臣民」がいる専制政治。

一方、エチオピア帝国からの独立を求めていたのがエリトリアで、その後30年続いた独立戦争が始まったのもこの帝政時代。

そんなエチオピア帝国で軍のクーデターが起きたのが今から47年前の1974年。

最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世は殺され、700年続いたエチオピア帝国は滅亡。

エチオピア労働者党独裁政権

代わって権力を握ったのが、マルクス主義イデオロギーによる社会主義国家建設を目指すメンギスツ。

ところが、このメンギスツというのがリアル暴れん坊将軍で、独裁者として君臨。

恐怖政治による大量粛清で何十万人とも百万人とも言われる数(正確な死者数は不明)のエチオピア国民を虐殺。当時の首都アジスアベバには死体がゴロゴロ転がっていたらしい。

アジアでいうところのカンボジアのポルポトみたいな感じ?

もう我慢ならん!!

ということで、各民族をベースにした反政府勢力たちが共闘し出した。

中心になったのは、エチオピアからの独立を目指していたエリトリア人民解放戦線(EPLF)、そしてティグレ人民解放戦線(TPLF)の二大武装勢力。

マイケル・ジャクソンなどUSAフォーアフリカがチャリティーソング『We Are the World』を出したきっかけとなる、100万人とも言われる餓死者を出したエチオピア大飢饉は、メンギスツがTPLF鎮圧のための戦略(兵糧攻め)の結果。

民族連邦制

1991年、エリトリア人民解放戦線(EPLF)や、ティグレ人民解放戦線(TPLF)など結集した反政府勢力たちが首都アジスアベバを占領。

1991年といえばソ連が崩壊した年。

超大国ソ連のヘルプがなくなったこともメンギスツ政権崩壊と無関係ではないはず。

メンギスツは亡命して、今もジンバブエに住んでいる。死んだというニュースは聞かないので、たぶんまだ生きているはず。

メンギスツ政権の崩壊を受けて、エリトリアがようやく独立を達成。

独立したエリトリアで初代大統領になったイサイアスは“今も”大統領である。

一方、エチオピアは…

独裁軍事政権を倒したのが、○○主義者とか思想ベースではなく、民族ベースの反政府勢力たちだったという経緯もあって、『民族自立』の旗印の下で民族連邦制の国に。

Jfblanc, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

そういう理由もあって、エチオピアの州は変な形をしている。

水色のオロミア州は、オロモ人が多数派の地域を州にしたらこんな形になったと。

ただ「どの民族が多数派か?」なんて微妙な地域も当然あって、そういうところは今に至る“領土問題”を抱えることに…

例えば、ティグレ州西部の一部地域は「本当はアムハラ州のものだった」とアムハラ側は考えている。だから今回のティグレ戦争でアムハラ州はティグレ州西部を「やっと取り返した」と占領に固執している。

独裁政権崩壊後、反政府勢力たちの連合政党が政権についた。

ティグレ代表はTPLF、オロモ代表は…、アムハラ代表は…、南部諸民族代表は…という集まりだったが、実際のところ全然対等じゃなかった。

そもそもTPLFが、オロモ代表、アムハラ代表、南部諸民族代表の組織結成に絡んでいたこともあって、連合とは名ばかりでTPLFだけが飛び抜けて力を持っていたと。

当然、新生エチオピアのトップにはTPLFのトップが就任。

メレスという男で、その後20年間エチオピアに君臨。以後、エチオピアはTPLFが実質的に牛耳ることに。

犬猿の仲

さて、メンギスツ独裁政権を倒すために共闘した“兄弟分”の仲が悪くなった。

『反政府勢力』のくくり同士、ゲリラ同士、わいわいキャッキャやっていた頃は仲が良かったのに…今やエリトリア人民解放戦線(EPLF)はエリトリア、ティグレ人民解放戦線(TPLF)はエチオピアと、お互いに反政府側から国家権力側になったら問題続出。

可愛さ余って憎さ百倍じゃないが、EPLF(=エリトリア)とTPLF(=エチオピア)は犬猿の仲に。

1998年、エリトリア軍がティグレ州に侵攻してエリトリア・エチオピア戦争が開戦。

お互いに首都を爆撃し合ったりして、戦争で10万人が死んだとされているが、最終的にはエチオピアが軍事的勝利を収めた(外交的に勝利したのはエリトリア)。

エチオピアに軍事的に敗北した批判が国内で強まると、エリトリア大統領イサイアスは逆ギレして急激に独裁化。全てのメディアを閉鎖し、自分に批判的な人間は逮捕・拷問・超法規的処刑し出して「アフリカの北朝鮮」と呼ばれるまでに。「国境なき記者団」による世界報道の自由ランキングで、エリトリアは北朝鮮を下回って世界最下位になったことも。

ぶっちゃけイサイアス的には敗戦がトラウマになっていて、未だにTPLFへの怨みでいっぱいのすげー根に持つタイプだったことが今回のティグレ戦争ではっきりしたかと。

アビィ首相

2012年、エチオピアのトップとして20年君臨していたメレスが病気で急死。

強権的だったメレスが死ぬと、それまで徹底して抑え込まれていたエチオピア国民の不満が形になって噴出するように。

メレスの死後に首相に就任した後継者(南部諸民族州)は、大規模な反政府デモを実力行使で弾圧して数百人の犠牲者を出したことで引責辞任。

その次に首相になったのが、オロモ人として初めてトップになったアビィ首相(42才)。

アビィ首相は、人権を尊重するとして政治犯の釈放、国営企業の民営化、言論と報道の自由、複数政党制の導入など次々と進める改革マンに。

外交では、エリトリアとの紛争に終止符を打つとして、紛争の種だったティグレ州バドメという町をエリトリアに引き渡すと発表。当然TPLFは猛反対し、急に「引き渡す」と言われた方のエリトリアもビックリしちゃってしばらくノーコメントだったほど。

その1か月後、アビィ首相はエリトリアを訪問してイサイアス大統領と歴史的会談を行う。エチオピアとエリトリアの首脳会談は実に20年ぶりで、お互いに大使館を設置して国交を正常化させることや、紛争の終結を宣言。

この時にイサイアス大統領が「我々は今後一体となって働く」とコメントしていて、今となっては非常に意味深な言葉。

これでアビィ首相は2019年のノーベル平和賞を受賞した。

さらにアビィ首相はエチオピアを劇的に変化させようとした。

これまでの民族主義をベースにした国の在り方を変えましょう!と。

今までの地方分権から中央集権へ。

そして、政党は自民族の利益を追求するのではなく、エチオピア全体のことを考えるべきとして…2019年、それまでエチオピアで政権を担っていた民族政党の寄り合いだった連合政党を解党して、新たに『繁栄党』を結党した。

この新しい『繫栄党』に合流しなかった民族政党はティグレ人民解放戦線(TPLF)だけ。

こうして独裁政権崩壊後のエチオピアを実質的に牛耳ってきたTPLFの都落ち決定。

そして戦争

若き改革者アビィ首相からすれば、TPLFは旧態依然とした民族政党で、その存在自体が邪魔でしょうがなくなってきた。

あいつら…消そうか?

と決意したんだろうとオレは勝手に推測。

2020年11月4日、開戦。

一般的にはTPLFがエチオピア軍の北部司令部を急襲して先に手を出したことになっているが…

アフリカ連合(AU)の報告書には逆のことが書いてある。

On 4 November 2020 the Government of the Federal Democratic Republic of Ethiopia launched a military offensive against the Tigray People’s Liberation Front (TPLF), this was followed by attacks on the Northern Command of the Ethiopian National Defence Forces by the TPLF on the same day.

(2020年11月4日、エチオピア連邦民主共和国政府はティグレ人民解放戦線(TPLF)に対する軍事攻撃を開始し、同日、TPLFによるエチオピア国防軍の北部司令部への攻撃が続いた)

AUはエチオピア政府寄りの立場を取っていて、中立とは言い難いが、そんなAUがエチオピア軍が先に手を出したと言ってるんだからねぇ…

事実として、どちらが先に手を出したのか?はオレには分からない。

ただ、どちらも戦争をするつもりで用意をしていたことは間違いないだろうな。

エリトリア軍も一緒になってティグレ州に攻め込んだってことは…「憎きTPLFをぶっ潰そうぜっ!」と、お互いの利害が一致したアビィ首相とイサイアス大統領が事前に口裏を合わせていないと出来ないわけで。

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