読んだ本5冊

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不定期読書記録。

坂口裕彦『ルポ難民追跡 バルカンルートを行く』

シリアやアフガニスタンなどからドイツを目指す難民たちを追うルポ。

「ドイツを目指すアフガン人一家に一人の記者が寄り添った」っていうから、そういうルポなのかと思いきや、ほぼ一家を見失ってて“寄り添って”はないよな。

逆に言うと、見失って寄り添えないくらいシステマティックな『難民エクスプレス』があったんだねってのが分かる。バルカン半島の国々が、下手に流れを堰き止めて国内が(もしくは国境が)難民で溢れ返るよりかは「さっさと難民たちを次の国に流しちゃおう。どうせ難民たちが行きたいのはうちじゃなくてドイツだし」的な感じで難民専用特別列車や特別バスでバシバシとリレー方式で通過させていった、と。

満足度:★★☆☆☆

イサベラ・バード『日本奥地紀行』

未読だった古典。

西南戦争の翌年になる明治11年に、3カ月かけて東京から日光を経由して新潟、山形、秋田、青森と北上して北海道を旅したイギリス人女性の話。

日本の常識・当たり前を共有していない分、外の人間の視点で見た当時の日本の姿はもしかしたら現代の日本人の視点と通じる部分があるかもな、と思ったり。

とにかくどの宿もノミが酷かったとか…オレもイヤだ。

あと、日本人も外人を初めて見た時はこうだったんだね!と「へー」となった。

黙って口だけ大きく開け、何時間もじっと動かずにいる。群衆が皆じっと憂鬱げに私を見つめているのは、私をたまらない気持ちにさせる。

今は知らないけど、バングラデシュとか外人が飯食ってるだけで黒山の人だかりになって、じっと見つめられる…と、よく聞いたが、古今東西を問わず初外人には同じリアクションになるのか?

早く床についた。いつものように行灯は薄暗く部屋を照らしていた。眼を閉じると、九時ごろ足を引きずって歩く音やささやき声でざわざわし、しばらく続くので、眼を上げたところ、向かい側に約四十人の男女と子供たちが、顔を行灯に照らされながら、みな私の姿をじっと見ていた。彼らは、廊下の隣の障子を三枚、音もなく取り去っていたのである!

これ、やだな…バングラデシュ人より怖ぇーじゃん。

ちなみにイサベラは日本人をこんな感じに表現している。

日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである。

次に読んだ『朝鮮奥地紀行』では日本人のことを小人と書いている。原作にはどんな単語で書いているのか?見てみたら、ドワーフ(Dwarf)だった。ホビットの冒険じゃん!

満足度:★★★★☆

イサベラ・バード『朝鮮奥地紀行』

日本の次に読んだのは朝鮮。

女たちの不格好な容姿は、この世で一番醜い服装によってその欠点が誇張され、ずんぐりして幅が広く、下品である。

「日本人のみじめな体格」とか、チマチョゴリを「この世で一番醜い服装」とか、主観を爆発させているが、まぁ紀行文だし…基本的にはニュートラルに書いている印象を持ったが、多少はどこか上から目線ってところもあるだろうな。

さて、この『朝鮮奥地紀行』は日本語訳がいくつか出ているのだが、オレが読んだのは平凡社東洋文庫から出ている朴尚得訳。

特徴としては…三マイル〔五キロメートル〕みたいに、原文とは別に親切にも訳者によってカッコ書きで追加説明がある。マイルをキロメートルにしてくれたりして基本的には訳者の追加説明は助かるのだが、気になる部分もちょこちょこ出てくる。

ハングル文字の昔の呼び名である諺文(オンムン)について、諺文〔人工的に意図的に製作された表音文字。人類が持っている七種類の文字のうちで最も科学的で合理的なもの、と言われている〕という追加説明とか。

文字ってそもそもが「人工的で意図的」だし、「人類が持っている七種類の文字」の括り方が謎すぎるし、内容が追加説明の範疇を超えてるよね。追加説明するとしても〔ハングルの旧名〕でよくね?

あとは、そもそも日本語に訳している時点でターゲットは日本人なんだから追加説明の必要がないはずの日本海〔朝鮮東海・南海〕とカッコ書きされているとか。

あれ?なんかオレが北の某国で嗅いだニオイがするけど、もしかして…と思って、CiNiiで検索してみた。

ふむ、朝鮮大学校の先生ということで妙に納得。

どうりで平壌〔朝鮮で最も古い伝説と歴史がある都市である…〕から始まって、追加説明のくせに6行も!使ってたのか…ソウルには追加説明なかったのに。

CiNiiに登録されている訳者の論文が「金日成主席の社会主義教育に関するテーゼフの歴史的根源について」とか「在日朝鮮公民の民主主義的民族教育について : 金日成首相の主体思想と教育思想の輝かしい具現」とかゴリゴリのタイトルにクラクラしてくるぞ!

満足度:★★★☆☆

藤崎武男『歴戦1万5000キロ』

歩兵とは、戦場を主に徒歩で戦闘する兵士のことである。

大日本帝国陸軍第37師団は、大陸打通作戦(一号作戦)で北京からバンコクまで踏破し、日本一歩いた軍隊と言われている。

ただのウォーキングでもしんどそうな距離を“戦いながら”って時点で意味不明。

師団本隊はバンコクで終戦を迎えたが、著者が中隊長を務めていた隷下の歩兵第227連隊第1中隊は先発隊としてマレー半島を縦断中だったもんだから…

結局シンガポールまで歩いちゃった大東亜徒歩ダー。

興味を持ったのが、湖南省で戦闘になった際に捕虜にした中国軍(国民党軍)の兵士2人の話。

現ベトナムとの国境で中国を離れる時も日本軍部隊について行く決断をしたという。2人の内1人は当時17才だったそうだ。結局マレーシアまで一緒に行ってそこで終戦。

2人はマレーシアに残って『マラヤ民族解放団』に参加することを決めた、と。

その後どうなったかは著者も分からないと書いていたが、数奇な人生を歩んだ中国人もいたんだね。

満足度:★★★★☆

光俊明『七歳の捕虜』

ということで、実際に数奇な人生を歩んだ中国人の自伝。

上の『歴戦1万5000キロ』は陸軍第37師団歩兵第227連隊第1中隊の話だが、『七歳の捕虜』は同じ第37師団歩兵第227連隊の第7中隊の話だ。

著者は光俊明(ひかり としあき)、苗字の光は帝国陸軍第37師団の通称号である光兵団から取ったそうで、自分の本名(中国名)は分からないそうだ。

中国山西省で生まれた6才の少年は、「百姓に教育は必要ない」と学校に行かせてくれない義父に対して、息子にどうしても教育を受けさせたい実母の策で中国(国民党)軍の郭中尉という将校に預けられる。

この郭中尉が少年に付けた名前が俊明(チュンミン)で、親が付けた名前はもう憶えていないそうだ。

中国軍将校の部隊と一緒に移動していた時、洛陽を目前にした黄河で日本軍との戦闘に巻き込まれ、中国軍部隊は日本軍に投降。それが第7中隊だった。

中国兵たちは捕虜になって北京に移送されていったが、7才の少年は俊明(としあき)として第7中隊のマスコットになる。

郭中尉は私のことをよく日本の兵隊さんに頼んでいってくれたそうですが、これから戦場に出ようとしている第七中隊が、はたして私のような何の役にも立たない子供を一緒に連れて行ってくれるだろうか。

死んでもいい。いっしょに行きたい。

私は倉内軍曹や、かわいがってくれている下士官たちに、

「いっしょに行きたいよぉ…」

と泣きついて、離れませんでした。

「俊坊がおれたちといっしょに行きたい気持ちはようわかる。しかし、おれたちはこれから戦場に行かなかければならない。俊坊と別れるのはつらいが、どうにもならん。われわれと交替する部隊も来ているのだから、交替部隊といっしょに残らんか」

いくら倉内軍曹からいわれても、身寄りのいなくなった私にはなじみになった第七中隊と離れるのはつらいことでした。

「いやです。死んでもかまいません。いっしょに行きたい」

といって、私は頼み続けました。

という流れで、中国からベトナム、タイと7000キロを日本軍と共に歩いた俊明少年。

ちなみに、第7中隊の交替部隊は1カ月後に全滅したそうだ。もし残っていたら…

終戦後、タイで日本人収容所に収容。「日本に行きたい。残していったら死んでやる」と、イギリス軍の許可を得て日本へ。

その後、日本で大学を出て、結婚、帰化…という人生。

誰からも可愛がられるって大事だな! 子供だったからか?

満足度:★★★★☆
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