青ヶ島【7】インフラ

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「自宅近くの信号を撮ってみました、イェイ!!」

こんな写真をインスタとかフェイスブックに投稿してたら、ムダに日常を切り取り過ぎてて若干の気持ち悪さを感じますが・・・

これが『青ヶ島唯一の信号』という肩書がつくだけで、あら不思議!!

ただの信号なのに何だか希少性があるように感じてしまうという。

ワタクシも何を血迷ったか?思わず写真を撮ってしまいましたが、きちんと青ヶ島の信号ということを覚えておかないと「なんでただの信号の写真を撮ったんだ??」と削除してしまう可能性あり。

今回は青ヶ島のインフラについて書きます。

水道

図書館で借りた青ヶ島村役場発行『青ヶ島島史』(1980)、いいっすねー

そんじょそこらのネット情報を遥かに凌駕する圧倒的な情報量。

枕にしたら高過ぎてクビを痛めること間違いなしの厚さを誇るだけあります。

昔は雨水を貯める貯水槽が8基あって、そこに貯まった水を使っていたそうなんだけど衛生的に問題があったらしく、新たな水道施設を造ることに。

総工費3億2千万円を投じた水道施設とは・・・

この事業は、昭和51年度から54年度を目途に丸山外輪山の北側山腹を、ほぼ後楽園球場に匹敵する広さで切り開き、セメントモルタルを吹き付けて不透水槽を作り、雨水を集めて貯水槽にため、緩速三過、塩素消毒を行い、配水管を経由して各家庭に給水するもの

後楽園球場という例え方が古い!!

ようは、山の斜面を全面コンクリートで塗り固めると。

雨が降ったらツルツルになった斜面を流れ落ちて、隣接した貯水槽に集まる。

それが『向沢集水場』。

島史では「全く斬新卓抜で前例のない独創的な発想と設計」と自画自賛。

ツルツル斜面の真ん中に細い道があったので歩いてみました。

濃霧で何も見えない!!

そのうえ台風並みの強風が遮るものがないツルツル斜面を滑走してきて、立っていられないほどだったので退散。

電気

現在、青ヶ島には出力640kWの東京電力の内燃力発電所があります。

ディーゼルエンジンで発電機を回して電気を作る内燃力発電。

今の発電所は当初よりは拡張しているみたいだけど、基本は昭和41年に完成したみたい。

昭和41(1966)年は発電事業が完成し、全村灯電が実現した記念すべき年である。

東京都で唯一電気が通っていなかった村、青ヶ島。

そんな青ヶ島で発電所を造るのは一大難事業だったそうで・・・

不撓不屈の村長の精進努力、村民の熱意もさることながら、陰に陽に尽力を惜しまれなかった人々の好意によって、その難事業は完成

さすが村役場発行の島史!!

村長をヨイショしております。

個人的には・・・「百戦百勝の鋼鉄の霊将である村長の卓越した統帥のもと、我が青ヶ島人民は無比の勇猛と犠牲、大衆的英雄主義をいかんなく発揮し、みごとに発電所建設という速度戦を戦い抜いた」ぐらいのプロパガンダ島史の方が良かったですけどね。

やっぱ日本人は遠慮しちゃうから、『不撓不屈の尊重の精進努力』くらいで抑えちゃうのかな?

建設に関して多くの資材は船で運んだらしいが、発電機は巨大で港から集落まで運ぶことが不可能だったため、八丈島から自衛隊の大型ヘリコプターで空輸。

ヘリポートから発電所までは距離的には500mくらいなんだけど、けっこうな坂になっているわけです。

そこで発電機を分解して、その坂道を村人総動員で運んだみたい。

中学2年生の少年の作文が載っていました。

坂道などでは荷物が重くて前にあまり進むことができないので、綱をつけてぼくたちが引っぱったのです。また狭い道では、じゃまになる木を切り倒して運びました。またあまりにも道が狭いので、畑を通って運んだところもあります。みんな疲れてのどがかわくので、中学生の女子がジュースやコーヒーを作って持ってきてくれました。

最初のテスト送電のスイッチが入った時、島は異常な興奮に包まれていたとか。

そして同じ年、村内電話開通!!

島の電柱とかにもくっ付いてる村内電話。

フタを開けると、中に普通のプッシュ式ダイヤル電話がある。

ちなみに青ヶ島のレンタカーはデリバリーしてくれるので、「もう疲れた・・・歩きたくない!!」となったら村内電話して「今どこどこにいるから持ってきてください」っていう使い方もあり。

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