南アから日本に帰る【29】絹之道

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第28話に続く第29話。

前回は、トルクメンバシュ様のテーマパークと化していたおとぎの国トルクメニスタンの話。

今回は、ウズベキスタンの話。

ウズベキスタンにはトータルで2カ月いた。

1カ月滞在して、2カ月後にまた来て1カ月滞在している。

カラカルパクスタン

トルクメニスタンの首都アシガバートからカラクム砂漠を南北に550km縦断して国境を越え、ウズベキスタンのヌクスに入った。

ヌクスはウズベキスタン内にあるカラカルパクスタン共和国の首都だ。

ウズベキスタンの西側(国土の1/3)はカラカルパクスタンという自治共和国で、独自の憲法、国旗、国歌を持っている。

カラカルパクスタンに入った途端、急にモテスタンになった。

「かっこいい」、「娘と結婚してくれ」、「私と結婚して」

ついにオレの時代が来たか?! トルクメンバシュ(Türkmenbaşy)亡き今、カラカルパクバス(Qaraqalpaqbas)を名乗って「オレの悪口を言ったら足が腐ればいい!」と『魂の書』でも書いてやろうか?

カラカルパク人にモテる!

「ゴルゴンゾーラを喉に詰まらせる!」と同じくらい言葉の響きにインパクトがあるが、果たして自慢できることなのかどうかは自分でも判断しかねる。

同じ“ウズベキスタン人”ではあるが、民族としてのウズベク人とカラカルパク人は見た目がちょっと違う。

カラカルパク人にはモンゴロイド要素が濃いめの顔立ちでウズベク人よりはカザフ人に近い人も多く、日本人的には親近感を抱きやすい。

カラカルパク人やカザフ人はチンギス・カンの長男ジョチを祖とするジョチ・ウルスを構成した遊牧民族。一方、ウズベク人は次男チャガタイを祖とするチャガタイ・ウルスの構成民族だった歴史も関係あるのかもしれん。

もちろんカラカルパク人全員というわけではないが、印象的には性別を問わず朝青龍のような顔が多い。

Salamat Ayapov #Nukus #Karakalpak

ダミ声のような喉歌、口琴、弦楽器コブズと、他の遊牧民族とも共通する特徴。

カラカルパクスタンの見どころは…特にない。

ウズベキスタンの中でも人が良く、距離感もちょうど良いので人の印象は良いが、土地としての良さは特に思い当たらない。

かつて世界4位の大きさを誇った内陸湖アラル海。

20世紀最大の環境破壊と言われるソ連が行った「自然改造計画」によって急激に縮小。

今では面積が1/5になり、4つの湖に分かれている。

モイナクは“元”アラル海沿岸最大の港町だった。

今は6時間くらいかけないと海に辿り着けない、ただの砂漠にポツンとある寂れた田舎町。

ヒヴァ

ウズベキスタンには東西に有名なオアシス都市がいくつかあるが、ヒヴァはウズベキスタンで最初に世界遺産に登録された町。

かつてのヒヴァ・ハン国の首都で、城壁に囲まれたイチャンカラ(内城)が旧市街になっている。城壁の内側は町ごと博物館のようで、保存状態もすごく良い。

他のオアシス都市と比べてこじんまりしていて、個人的にはかなり気に入った街のひとつ。

けっこうサイズ感が大事で、あまり大きくても疲れるからイヤなのだがヒヴァはちょうどいい。頑張れば半日もあれば全部見て回れそうだったが、殺人的な暑さだったので午前に30分、午後に30分、ちょっとずつ数日かけて見て回った。

もちろん観光客ズレしている部分はあるが、イヤな感じはしなかった。

子供たちが外国人観光客に「ボンボン、イエス?」と聞いてくる程度。ボンボンとはキャンディーのことらしい。「キャンディー、いい?」みたいなおねだりだ。

ちなみに、カラカルパクスタンのモイナクでは「ウォーター、イエス?」が流行っていた。水くらい良いかな?と思ってあげると、1.5Lボトルの半分くらいを一気に飲まれてちょっと引いた。返ってきたボトルの口が少年の唾液でめっちゃ臭くなっててまた引いた。

ブハラ

かつてのブハラ・ハン国の首都ブハラ。

個人的にはサマルカンドよりブハラの方が落ち着く町で好き。

ブハラを象徴する見どころと言えば、あのチンギス・カンも見上げた高さ46mのカラーン・ミナレット。

140年くらい前までは、罪人をこの上から生きたまま落とす公開処刑の場としても使われていたらしい。もし罪人が高所恐怖症だったら…と考えると恐ろしいな!!

ヒヴァ同様にブハラでも子供たちの間で「ボンボン、イエス?」が流行っていた。

ほとんどの観光客には無視されていたが、少し相手をしてみた。「私たちの写真を撮って」と言われたので撮ってあげると大喜び。

この後、右の子に手を引かれて彼女の自宅に連れて行かれ、お父さんに挨拶してお茶をご馳走になっている。

どうやら自分の妹だか弟だかを見せたかったようだ。

後日同じ場所を通りかかると、相変わらず2人は観光客のグループにくっ付いて「ボンボン、イエス?」と絡んでいたが、オレを見付けると手を振って走ってきたが「ボンボン、イエス?」とは言ってこなかった。

結局のところ「ウォーター、イエス?」も「ボンボン、イエス?」も何なのか良く分からない。

たぶん・・・半分は子供の暇つぶしの遊びで、半分は運よく観光客から何か貰えたらラッキー程度のもので、本気で何かを欲してやっているわけではないよう気がした。

無視せずちょっと相手をしてあげるだけでその後「ボンボン、イエス?」と言われなくなり、オレにもメリットがある。子供だからしつこく、言われたら言われたでうざいから。

ボンボンボーイズもこの後「ボンボン、イエス?」とは言ってこなくなり、ブハラ滞在が長くなるにつれオレの行動範囲内に「ボンボン、イエス?」を言ってくる子供はいなくなった。

ノーボンボンマンとして認められた証である。

ボンボンとは関係ないが…

女子生徒の学生服がメイド服みたいだったのが謎。

ウズベキスタンは法律で学生のドレスコードを規定するらしく、当時まだ存命中だった独裁者カリモフの趣味だった可能性大。

ボイスン

アフガニスタンやタジキスタンとの国境に近い、ボイスンに向かった。

町の北東にあるギッサール山脈は東に伸びて「世界の屋根」パミール高原に繋がる。

途中、川が氾濫して道路を押し流して車が通れなくなっていて呆然とするウズベク人たち。

8時間半かけてヘロヘロでボイスンに辿り着いたオレを待っていたのは、とあるプロジェクトでボイスンに7カ月滞在中だというタタール人の土木会社社長と従業員たち。

偶々同じ宿になった先客で「移動で疲れていてしんどい」と言っているにもかかわらず、ほぼ強制で飲み会に動員させられた。

元ソ連軍の将校だったというタタール人の社長が、呼ばなくてもいいのにボイスン地区のウズベキスタン内務省軍の偉い人まで呼んじゃって、なるべくなら避けたい軍人ノリの飲み会スタートである。土木会社の従業員たちも、将校だった社長が集めた部下=元兵士だ。

「ウズベクとタタールと日本の友情に乾杯!」

年長者が口上を述べたらなみなみと注がれたウォッカを一気飲み。

なるべくなら避けたい軍人ノリ飲み会だったが、悲しきことにロシアのサンクトで覚えたソ連軍スラング、グルジアで買ったカンツィ(牛の角の杯)と、飲み会を盛り上げてしまう要素を自ら投下してしまい深夜遅くまで宴は続いた。

カンツィは中が空洞になっていて、グルジアではそこにワインを注ぐ。角なので湾曲しているし先が尖っていて自立できないので、中身を飲み干さない限りテーブルに置けない(飲み干していないと必ずこぼれる)ので、基本的に一気飲みせざるを得ない恐ろしいアイテムだ。カンツィで飲み会をすると、ほぼ確実に酔い潰れる。

いい人たちではあるが、あの人たちは毎晩のようにアホみたいにウォッカを飲むからオレにとっては非常に不健全な環境である。どれくらいアホみたいに飲むか?というと…ロシア人男性の25%は55才までに早死にするくらい。死因の多くはウォッカの飲み過ぎ。タタール人だろうがウズベク人だろうが、現役でも元でも『軍人』の時点で飲み方は“ソ連軍の伝統”を継承していてロシア人と変わらん。

外国人であるヤポンマン(日本人)なんて誘いたくて誘いたくてしょうがないんだから、ずっと近くにいると早死にレベルのウォッカ飲み会に毎晩のように誘われちゃって危険。

だから、宿を変えた。

「ボイスン地区の文化的空間」としてUNESCO無形世界遺産に登録されているボイスンには、特産のジャンダ織などを見学できる工芸センターがある。そこの所長なのか世話役なのかよく分からないおじいちゃん(たぶん何らかの関係者)が「うちに泊まればいい」というので、おじいちゃんの家にお邪魔することにした。

ウズベク語でおじいちゃんを意味するボボと呼んでいたので、名前は知らない。

ボボの家には1週間滞在した。

息子はロシアに出稼ぎに行っており、嫁と孫娘2人と4人暮らしの一軒家。

当初は1泊5,000スム(当時約460円)で素泊まりという話だったはずなのだが、知らない間に同じ値段で1泊3食付きになっていた。

ボボはとにかく自分の地元を見せて回りたいらしく、ほぼ毎日のように連れ出されてギッサール山脈を駆けずり回らされた。

「あそこの山からの景色がよい」とか「もっと上に行こう!」とか、こちらがゼェゼェ言いながら登っているのに、ピョンピョンと軽やかに登っていく。

岩の上から景色を眺めるボボ。

ボボはソ連時代にアフガニスタン侵攻に従軍したらしく「アフガニスタン北部の山岳地帯もこんな感じ」と言っていた。実戦経験の差か?山歩きが速過ぎ!!

山間部で出会った知らないボボ。

オレの知ってるボボよりだいぶボボ。

ボイスンがあるスルハンダリヤ州はウズベキスタン最南部にあり、タジク人も多く住んでいる。ウズベク人はテュルク系民族だが、タジク人はイラン系だ。

まゆげが繋がっていることが美しいという美的感覚なので、まゆげを描いたりタトゥーを入れて「こち亀」の両津勘吉ばりにわざと繋げている。

そんなまゆげ女どもにオレはゲラゲラ笑われて複雑な心境に。当時長髪だったのだが、保守的な彼女たちの中で“男で長髪”なんていうのは変態か同性愛者なのだ。

いや…世界的にみて特殊癖なのはそっちだけどな。みんな“文化を尊重”して口にしないだけで、変だぞ。

「ビザを持ってないけど入国できるかな?」とボイスンからタジキスタンの国境に突撃してみたがやはり跳ね返されて、タジキスタンのイミグレで1時間ほどお茶を飲んで帰って来た。

サマルカンド

青の都として知られるサマルカンド。

遥か遠いシリアのダマスカスまで攻め込むくらい、オスマン帝国を一時的に解体させるくらい強力な帝国だったかつてのティムール帝国の首都だ。

3つのマドラサ(神学校)が建つレギスタン広場はたぶんウズベキスタンで一番有名な観光地。

サマルカンドブルーと呼ばれる青いモザイクタイルで覆われた建物が特徴なので青の都。

東から西でも、西から東でもいいが、ユーラシア大陸を横移動してみると歴史の連続性が見えてくる。

グルジアの首都トビリシで見たオルベリアニ浴場はペルシャ様式の建物だった。

そのペルシャであるイランのイスファハーンには青タイルで覆われたモスクが。

サファヴィー朝の傑作と言われるが、サマルカンドの影響は大いに受けている。

緻密な模様と鮮やかな青のタイルがサマルカンド“発祥”というわけではないけど、中国から陶磁器の技術とか取り入れながらある意味で完成形の域まで高めたのはティムール帝国の功績かと。

逆もまた然り。

ウズベキスタンでよく飲まれているシャルバット。

シャーベットの語源にもなっているが、元々はイラン発祥で伝わってきた。

ウズベキスタンにもあるし、パキスタンやインドでもシャルバットとしてあるようだ。

毒々しい色をしたシロップを水で薄めた甘すぎる不健康そうな味の飲み物。

投げ銭Doneru

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