南アから日本に帰る【22】川沿い

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第21話に続く第22話。

前回はオレの牛歩戦術を決定づけた『モスクワの変』の話。

今回はウクライナから南下して行く話。

ボラさん

申請していたビザを受け取りにモルドバ大使館に行ったのだが、早く着いてしまった。

領事部が開くのを外でボーっと待っていると、同じくパスポートを受け取りに来ていた人に話しかけられた。

「モルドバに何しに行くのか?」という話から「どうやって行くつもりだ?」という話になった。

事前に購入していた列車のチケットを見せながら「キーウからオデーサまで列車で行って、オデーサから沿ドニエストル共和国を経由してモルドバに入る」と答えると…

「プロブレム!ビッグ・プロブレム!!」

予想外の大きな反応が返ってきた。

大使館の警備に当たっていたウクライナの警官までもが首を横に振りながら「なんで沿ドニエストルなんかに行くんだ?!プロブレム!」と加勢してくる始末。

しかし、そんなことを言われたくらいで動じるような軟弱なオレではない!

マ、マジで…? プ、プロブレム?

そんなに寄ってたかって言われると急にビビってきた。

ウクライナを源流とするドニエストル川はモルドバを北から南に流れて黒海に流れ込む。

TUBS, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

そのモルドバ領内を流れるドニエストル川の東岸には、沿ドニエストル共和国という自称国家(地図の赤色部分)があって、モルドバ政府の実効支配が及んでいない。

どんな自称国家かと言えば、このソ連の亡霊のような“国旗”を見れば一目瞭然だろう。

ウクライナのオデーサからモルドバに陸路で行こうと思えば、どうしても沿ドニエストルを通らざるをえないが、外国人旅行者は“国境”で言いがかりをつけられて100%カツアゲされるからビッグ・プロブレムだという。

モルドバ大使館でオレに話しかけてきたのはトルコ人だった。

若い頃にウクライナに留学して7年住んでいたことがあるらしく、現在の奥さん(モルドバ人)と知り合ったのもキーウだそうだ。

そんなボラさんが「明日自分の車でモルドバに帰るから、沿ドニエストルなんか通っていかず、私の車に一緒に乗って行くか?」と聞いてきた。

今しがた知り合ったばかりの、素性をよく知らないおじさんにノコノコと付いて行くことにかなり迷いはあったが…ここは流れに身を任せることにしよう。

大使館からボラさんにくっ付いて行くことにした。

ボラさんに夕食を奢ってもらい、「今夜はここに泊まろう」と連れて来られたところはカジノが併設された四つ星のラグジュアリーホテル。

さすがに恐縮するオレにボラさんはこう言い放った。

「君は学生だろ?俺はビジネスマンだ。ここは心配しなくてもいい。いつか君が働いたら同じように学生を助ければいい」

い、いや…なにやらひどく勘違いされているようだが、オレは学生なんかではなく…日本に帰国中ではあるが帰国したくない矛盾の中で牛歩マンになった男でしかないのだが…

あざーす!!

ボラさんの想いを壊さないため否定も肯定もせず、素直にお言葉に甘えることにした。

翌日、ボラさんの運転するフォルクスワーゲン車でモルドバに向かった。

国境までは、ウクライナの田舎風景を観察しながら約7時間のドライブ。

途中で通過した町の少なくとも2つにレーニンの銅像が建っているのが見えた。

荷馬車が普通に走っていて、手綱を握っているのは年老いたおじいさん。隣にはスカーフで頭を覆ってアゴのところで結んでいるおばあさんが、まるで死んでいるかのように微動だにせず座っている。

荷台にはジャガイモが積まれていた。

冬のどんよりとした曇り空と2人の着ている暗い色の服が合わさって、何とも言えない哀愁を漂わせている。

道路沿いの家々は貧しそうに見え、道端にはいつ売れるかも分からないジャガイモを並べた老人たちが焚き火で暖を取りながら座っていた。

ヤームピリという聞いたこともない国境で、ドニエストル川を渡ってモルドバに入る。

車ごと人力渡し船に乗って渡河すると、モルドバ国旗が掲げられた犬小屋のようなイミグレがあった。

実は…ビザが有効になる前にモルドバに来てしまったのだが、ボラさんの友人がモルドバの出入国審査局で働いているらしく、その人にお願いして「日本人が今から行くから、ビザの有効前だけど大目に見てやれ」と国境に電話をしてもらっていた。

本来ならまだ無効なビザだったが、根回しのおかげで無事に入国できた。

モルドバ

ボラさんの家は首都キシナウから北60kmのところにあるオルヘイという小さな町にあった。

オルヘイでのホテル代もボラさんが出すと言って聞かなかった。

キーウで出会ってから、キシナウまで車で送ってもらい別れるまでボラさんは一度もオレにお金を払わせてくれなかった。

ただただめちゃくちゃ良い人だった!!

キシナウの中央市場。

首都だけあってモルドバ国内では一番の町ではあるが、周辺国と比較してしまうと地方都市のような静かで穏やかな雰囲気の町だ。

ワインが有名な国だが、いかにも旅行者然とした人を見かけることもなく「あれ?モルドバに来ている旅行者ってオレだけ?」と勘違いするほど静かだ。

そういう意味では、アルバニアの首都ティラナも同じような感じだった。

アルバニアワインも歴史がある良質なワインなのに、世界的にはモルドバワインほど有名じゃない時点で、オレの『ヨーロッパで最も地味な国ランキング』では僅差でアルバニアがモルドバを上回っているがその差は微妙である。

少し物足りなくなってきたオレは、刺激を求めて小旅行に出かけることにした。

沿ドニエストル共和国

「外国人旅行者は“国境”で言いがかりをつけられて100%カツアゲされるからビッグ・プロブレム」と聞いていたので、ビッグ・プロブレムになるであろう前提で行った。

荷物は全てキシナウに置き、最小限のお金と一眼レフだけを持ってほぼ手ぶらでの小旅行である。さすがに一眼レフは困るが、お金は帰りのバス代を残してカツアゲされても困らないくらいしか持って行かなかった。

自称国家の沿ドニエストル共和国は独自の大統領、独自の軍、独自の通貨(沿ドニエストル・ルーブル)を持つ。

キシナウから“首都”ティラスポリまではバスで約1時間半しかかからない。

ドニエストル川近くに“国境”があって、有刺鉄線が巻かれたゲートが3重になってあり、小銃で武装した兵士たちが立っていた。

モルドバ側は止まることなく通過できるが、沿ドニエストル側で車両は全て止められ兵士が乗り込んできて身分証明書をチェックしてくる。

オレだけバスから降りるように命令されて“税関”小屋に連れて行かれた。

「今回の旅でこんなの初めて」ってくらい徹底的に調べられた。

カメラ以外、若干のモルドバ・レイと5USドルの現金が持ち物の全てだ。それでも「有り金を全部出せ」と言って来る。「これで全部だよ」と言うと「え?これだけ?」という感じで納得出来ない様子。ポケットの中身を全部出させられ、さらにチェックを受ける。でも、持ってないものは持ってない。

ポケットの中に入っていた灰色の四角い物体を見た兵士が「これは何だ?」というので「一眼レフカメラのスペアバッテリーです」と言うと…「開けろ!」。

へっ?!

なんだ、そのトリッキーな要求は?

バッテリーって開けようと思って開けられるものでもないし、リチウムイオン電池の電解液は人体に良くないし、開ける=分解で使えなくなっちゃうからイヤだったので「いや、これはバッテリーというものでして開けるのは危険かと…」と説明を試みるが「開けろ!」の一点張り。

何なの?沿ドニエストルってバッテリーないの?!

もしくは…むちゃくちゃアホなんか?!

なかなか開けようとしないオレからバッテリーをひったくり、兵士は自分で力づくで開けようとバッテリーと格闘をはじめた。

あれだけ危険であることをアピールしたのに…電解液が飛び散って化学やけどを負えばいいのに!と思いながら眺めていたが、最終的にバッテリーの頑丈さが勝ち、諦めた兵士の手から元の姿のまま戻って来た。

お次は「100レイ(当時約920円)を払え」などと意味不明なことをほざく。「じゃあ、領収書ちょうだい」と言うが、もちろんそんなものが出るわけもない。

それなら払わないと拒否。

「じゃあ、キシナウに帰れ」と言うので「はい、帰ります」と言うと『こいつをどうしたらいいんだ?』と兵士たちで相談を始めた。すると奥から上官らしき人が現れて「レジストレーション(登録)をするからこっちに来い」と上官部屋に呼び出し。

この上官からは5USドルを要求される。色々な情報筋によると、この5USドルは“一応”必要なレジストレーション料と聞いていたので素直に払う。

領収書が出ないので、本当のところは分からない。

続いて“イミグレ”。ここでは8レイ(約70円)を払うと紙切れをくれた。これは“出国時”に必要になるので大事に取っておかないといけない。

以上で沿ドニエストルへの“入国”は完了した。

ほぼ手ぶらだったのでこの程度で済んだが、パソコンから何から荷物を全て持って通ろうとしたらどれほど面倒になっていたことか…

ティラスポリ市内で見かけた、レーニンと鎌と槌マークに挟まれた名誉掲示板。

表彰に値する人民の顔写真と名前を貼り出して称えるための掲示板だが、使われている様子はなかったのでソ連時代の遺物と思われる。

ルーマニア

モルドバからルーマニアに入った。

ルーマニア(Roman-ia)「ローマ人の国」という国名から分かる通り、周囲を(西の隣国ハンガリーを除いて)スラヴ系民族にグルっと囲まれてしまっているポツンとラテン系である。

歴史的背景から今は違う国になっているが、モルドバもルーマニアと言語・民族的に同じだ。ただ、モルドバ全てがルーマニアと同じか?というと同じではない地域もあって、スラヴ系住民が多い地域が沿ドニエストル共和国を勝手に名乗ったりしているという話。

ルーマニア北部のスチャアヴァは居心地が良く長居してしまった。

町の中心からは離れていて、家の周りをニワトリや犬や猫が走り回っているし、窓から見えるのは畑ばかりという田舎に泊まったのだが…

モニカが搾りたての牛乳や、畑で取れた野菜など、田舎の食材を使ったボリュームたっぷりのルーマニア料理を作ってくれて、どれも美味しかった。

結局、スチャアヴァでは外食を一回もしていないし、中世モルダヴィア公国の首都だった時の要塞すら見ていない。

市内にあるスチャアヴァ要塞は見ていないが、車で1時間半ほどかかるモルダヴィア地方の教会群には連れて行ってもらっている。

シュテファン3世(モルダヴィア公)が戦争に勝利するごとに修道院を造ったとかで、やたら沢山あるのだがその内のいくつかは世界遺産にも登録されている。

これはスチェヴィツァ修道院。

修道院の外壁が鮮やかなフレスコ画でびっしりと覆われているのが特徴だ。

こちらはモルドヴィツァ修道院。

スチェヴィツァとかモルドヴィツァとか、ピッツァ(Pizza)ばりにラテン風味。

モニカいわく、外壁に絵を描いたのは文字を読めない農民たちが目で見て理解出来るようにしたためだそうだ。なるほど、聖書に書かれている逸話や、キリストの生涯が四コマ漫画のように順を追って描かれている。

外壁を使った漫画だな!

修道院によっては、北風がぶつかる北壁は絵がほとんど消えてしまっていたが、他は「本当に500年前に描いたの?」と思うくらい鮮明に残っていた。

修道院はまとまって建っているわけではなく、モルダヴィア地方に点在しているので自力で見に行くのはかなり大変そうであった。まぁ、何か所も見なくても、異常なほど鮮やかにフレスコ画が残っているスチェヴィツァ修道院だけ見れば十分という気もするが…

さて、ルーマニアから南下してブルガリアを通ればもうトルコで、イスタンブールなど目と鼻の先である。

ちょっと速すぎるか?

スチャアヴァで少し足踏みしたものの、思ったより快足で移動してしまっていることに気付いたオレは、ルーマニアを北上してまたウクライナに戻ることにした。

この後、2度目となるウクライナから2度目となるスロバキアを経由してハンガリーに入る。

ハンガリーから一度ドイツを経由してセルビアに入り、またルーマニアに戻ってくる。

イスタンブールまで2日もあれば行けるところを、2カ月かけた。

投げ銭Doneru

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コメント

  1. クリモト より:

    ごぶさたしています。ダナキルのツアーでお会いしたクリモトです。シンガポール航空のキャンペーンでケープタウン往復総額69000円という破格値のチケットが取れたので、来年1月に11年ぶりに1ヶ月ほど南アへ行ってきます。

    そんな矢先、もらい事故にあい入院することになりました。病院はWi-Fiも飛んでいないため、活字情報がすごくありがたいです。ブログ更新も楽しみにしています。