第19話に続く最終話。
旅の終わり
新たに働くことになったT社の社長から、働き出すまでの間の1カ月を使ってAUAタイ語学校に通ってタイ語を基礎から勉強するように言われた。
AUAの授業では、生徒は先生のタイ語をひたすら聞くだけで話してはいけない。ひたすら聞いて、赤ちゃんが言葉を覚えてゆくようにタイ語を覚えてゆく方法らしい。この方法は1日5~6時間の授業を半年くらい続けないと意味がないらしいが、オレは2日通って行かなくなった。ただ話を聞いているだけだと、赤ちゃんのように寝てしまうのだ。
そこで社長は一切タイ語しか通じない環境にオレを“隔離”するため、最初はチョンブリー県(バンコクを東京とすれば、千葉県みたいな感じ)の支店に配属になった。
埼玉県から千葉県に引っ越すみたいな感じで、ノンタブリー県パクレットからチョンブリー県シーラチャに引っ越す。
1998年の日本出国から6冊にわたって書いてきたオレの“旅”日記も、2000年に引っ越した先のチョンブリーで終わりをむかえる。
書くのを止めた理由をはっきりとは覚えていないが…多分、もう旅人じゃないと自覚したことで書かなくなったのかも。けっこう前から旅人ではなかったけど、自覚の問題。
日記は2000年6月8日(木)を最後に終わる。
朝、いつものようにボルボに乗って出勤していた。
100キロくらいのスピードで走っていると、前を走っていた三菱ランサーの新車が急ブレーキを踏んだ。ちょっと気付くのが遅れたため、ブレーキを踏んでも止まりきれなかった。元々タイヤがツルツルだったせいもあって、最後の最後でゴチッとぶつかってしまった。
やっべー!!
ランサーからはなんかヤクザみたいなおっさんが出てきた。タイで事故を起こしたのは初めてだ。(当然だが)タイ語でわーわー言ってくるので、こっちは相手の土俵に乗らないように「タイ語わからなーい」と言うと、ヤクザなおっさんが単語英語で話し始めた。
「警察を呼ぼうか?なんなら現金をここで払ってくれれば許してやる」みたいなことを言っていたので、恐る恐る「いくら?」と聞いてみると「2千バーツ」と言われた。「オー、高すぎるネ~」と肩をすぼめてみせると男は金額を下げ始めた。それで強気に「500バーツ(約1500円)なら払うぞ」と言ってみると意外にすんなりOKした。
ランサーのバンパーは半分取れかかっている上に、ぶつけたところは穴が開いているのに500バーツで足りるわけねーだろ。
でもラッキー!
「出勤していた」から始まっている時点で、もう“旅”日記じゃねーし。
ちなみに、新車の営業車が納車されるまでの間は代車として社長のボルボに乗っていた。そのボルボでカマを掘ってしまったのだが、バンパーを破壊されたランサーに対してボルボは全くの無傷だったので今でもこの時のことは社長に内緒にしている。
日記ではおっさんに「警察を呼ぼうか?」と言われたと書いているが、タイでこういう事故を起こした時は警察を呼ばないということは後で知った。基本的に保険屋の仕事になるので警察官の目の前で事故っても交通整理をしてくれるだけで、事故そのものに対してはノータッチだ。おっさんの脅しだな。
ソルーナ
後日、納車されたのはトヨタ・ソルーナ。
見た目の安っぽさの通り、50万バーツ(約150万円)台で買えるお手頃価格でタイにおけるセダン車の普及に一役買ったタイ製トヨタ車だが、2002年に生産を終了している。
ナンバープレートが赤いのは新車だから。赤ナンバーの間は『日没後は走ってはいけない』とか『国道や高速道路を走ってはいけない』とか『追い越し車線を走ってはいけない』という謎の法律があるが…上の写真はモーターウェイという国道7号線にして高速道路のサービスエリアで撮っている。夜も普通に走っていたが、捕まったことはない。
これはオレの2台目ソルーナ。
会社が新車の営業車を買う度に乗り換えていた。最初に乗っていたモデルからマイナーチェンジをしていて、確か…安っぽさが微妙に軽減されたような気がする。
実は、この頃に人生初のデジカメとしてソニーDSC-S30を購入。2台目ソルーナの写真もそのデジカメで撮ったものだ。
デジカメ黎明期らしく125万画素という鼻くそみたいなスペックで、付属のメモリースティックに至っては4MBという…今だったら写真1枚分の容量しかないという恐ろしさ。そのくせ超ぶ厚くてフィルムカメラの方がまだコンパクトだった。
まぁ、ノストラダムスの大予言で地球は滅びるとか、Y2K問題で世界のコンピュータが誤作動を起こすとか世界が騒いでいた時代のデジカメだからな…致し方あるまい。
シーラチャ
チョンブリー県シーラチャには半年弱住んだ。
当時住んでいた『スークルエタイ・コンドミニアム』の写真が残っている。
フィルム写真の方が多く残っているところから推測するに…「こいつ使えねー!」と、デジカメを全然使っていなかった可能性大。
これは当時シーラチャにあったコンビニで、その名もイレブンセブン。
中国で見かけたケンロッキー・フライドチキンくらい素敵だ。
バリ島で見つけた、ラコステかと思ったら逆さになったワニの下にOcosite(おこして)とロゴが入ったポロシャツの方がもっと素敵だったけど。
自由放任主義
さて、T社に転職したオレに課せられた最初で最後のノルマはただひとつ。
採用後3カ月以内に1台も売れなかったらクビ
無事ノルマをクリアしたオレは、その後は“放置プレイ”される。
いや、言葉のチョイスが違うな…“自由放任”の方が正しいかな?
社会経験の浅い若造を放任するって、なかなかの度胸と余裕がないと出来ないと思うけどな。ハイリスク過ぎて、オレが逆の立場だったらそんな度胸はない。
誰かが何かを教えてくれるというのは、実は恵まれていることだとあの時思った。
「こうすべき」と助言されるとか「こうしなさい」と命令されるとか『怒られる』とか、もしくは自分じゃなくても誰か他の人がそう言われているのを聞く、怒られているのを見るでもいいけど、それは自分にとって何かしらの指針となる。
何も言われない、何も命令されない、「お好きなようにどうぞ」と完全自由に仕事を任されると実は仕事的には効率が悪い。
すでにある程度の社会経験を積んでいる人は別だが…
オレ、数カ月前まで旅人だった21才なんですけどっ!!
自分がやっていることは正しいのか?もっと良い方法があるのではないか?色々と自分なりに考えて試行錯誤してみるが、その正解は誰も教えてくれない。
そのうえ、自分の能力や成績を比べられる誰かがいないので相対的に自分の立ち位置を評価することもできない。なるべく客観的に自己評価するようにはしていたが、比較対象がいない以上そんなもの所詮は主観的な評価にしかならないのだ。
会社組織というのはピラミッド構造になっているが、社内で唯一の日本人だったオレだけピラミッドの中には組み込まれずポツンと横にいて、社長直轄としてピラミッドの頂点と線で繋がっているような感じだった。これはあくまでも組織的な話で、P社の時と違ってハブられることもなく人間関係は良好だった。今だにタイ人の営業の子たちとは繋がりがあるし。
日本の親に頼んで営業のビジネス本を何冊も送ってもらったりして色々と研究したな…そういえば。
まずは、自分の営業成績を自分で記録してグラフ化することから始めたりなんかして。
そこから?!みたいな話なんだけど。
ノルマもないので、自分で自分の営業成績を管理して自分で目標を設定。年間目標を達成するためのロードマップを4半期毎月毎週毎と細分化して自分の中に落とし込んでいく的なこともやってな…そういえば。
誰からも管理されていない状態というのは、意外と自分でモチベーションを維持するのが大変だったから、最初の頃のオレはP社への怒りをモチベーションに変えていた(笑)
小金をケチったばかりにオレ様という人材を手放す羽目になったことを心の底から後悔させてやるぜっ!!みたいな。
引き継ぎがあった既存客はたったの2社だったから、ほぼ一からの新規開拓営業。
最初の1年間で営業車で走り回った距離は10万キロを超えて、オレの2000年は仕事一色だったような記憶がある。
もちろん夜な夜な飲み歩いてはいたものの、チョンブリーで夜って言ったらパタヤくらい。
あんまりあの世紀末都市は好きじゃないっていうか、雰囲気がファラン(白人)向けの町だからなぁ~…ほら、ファランってブス好きじゃない? そうすると需要と供給で自然とブスが集まってきている印象はある。あれ、これって差別的な問題発言ですか?
飲み歩き的にはバンコクに住んだ方がいい!!と社長に直訴して、半年弱でチョンブリーの支店からバンコクの本社に異動してきた。
その後
2000年からの最初の1年間は、正直いって頑張った割になかなか結果がついてこない1年で、もどかしさはあったが「最初はこんなもんだろ」と種まき期として割り切っていた。
記録をみると…最初の1年の個人売上成績はたった1800万円だったが、翌年に5000万円を超え、2年後には1億円を超えた。時間の経過と共に仕事の効率性が上がったことや収穫期に入ったことが大きい。取引先も引き継ぎのあった2社から数百社に増えた。
2年後、つまり2002年には279万バーツ(約837万円)でBMWを買ったり、社長と共同出資でA社を設立したりと大きな変化もあった。
タイの輸入関税のせいでアホみたいに高かったが、自分のお金で初めて買った車だから当然のことながら思い入れがある。本当はアルファロメオを買おうと思ってたんだけど、社長に「止めとけ!絶対BMWだって!」って言われて「あらそう?」みたいな感じでノリで決めた。
まぁ、手取り6,000バーツ(約1万8千円)の給料で栄養失調で入院したあの頃のオレが、ソンテウ出勤していたあの頃のオレが、2年ちょっと経ってまさかBMWに乗れるご身分になっているとは予想だにしていなかったので、少し感慨深いものはあったけど。
後悔
ついでに書いちゃうと、2005年に全部捨てて南アフリカに引っ越すんだけど「後悔してない?」とはよく聞かれる。
強がって言うわけじゃないけど、意外と…してないもんで、これが。
そもそも世界中を見てまわりたいという動機で日本を飛び出てきていたオレ的には、日本を出て6年半も経っているのに未だにスタート地点であるバンコクにいるというのが若干のコンプレックスだったのだ。
「たられば」の話をすれば、世界中を見てまわって最後に立ち寄ったのがバンコクだったら…今もまだバンコクにいたかもしれない。
結局のところ、何かを求めれば何かを犠牲にしないといけないトレードオフの関係で考えれば、タイ生活を捨てたからこそアフリカ生活&四駆旅とその後に続くアフリカ大陸縦断&ユーラシア大陸横断旅があるわけで…あれはあれですげー楽しかったから、後悔どうこうっていうより「しょうがないよね」と割り切るしかない。もう価値観の話になっちゃうし。
ただ、オレのことを何事も後悔しないポジティブ野郎と誤解されるのも困る。
これはもう時効だから書くが、昔バンコクで付き合っていた女がいた。ポワワーンとしためっちゃ性格のいい子で、お母さんはタイ警察の高官だった。
オレが高速を200何十キロでぶっ飛ばして警察に捕まり一発免停で免許証を取り上げられた時も、彼女に助けてもらった。
ホントに電話一本で免停が解けて免許証が返ってきた。オレが「世の中なんて所詮はカネと権力だっ!」と叫んでいたのはこの頃だ。
そんな彼女は処女で、あまりにも痛がるので半分だけ貫通したところでテンションが下がっちゃって止めたのだが、その後でこんなお願いをされた。
両手で受け皿を作って待っていた彼女の手にご要望のものを放出して「ほーら、これがそうだよ」と見せてあげた心優しいオレだったが、直後にハッと気が付いた時にはもう既に時遅し。
後悔先に立たず、とはまさにこのこと。
あーっ!なんで己の手を使って放出させちゃったんだろ、ここは男的には彼女にやらせるべきだったぁ…オレのバカっバカっ!!みたいな後悔はしょっちゅうある。
以上。