タイのからゆきさん

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色々と昔のタイにかんする本を読んでいて気が付いたのだが…

どうやら昔のバンコクには富士ホテル、バンコクニューホテル、旭ホテルという日本人経営の女郎宿(遊郭)があったようだ。

昔というのは、1880~1890年頃の明治時代。

バンコクのどこら辺にあったんだろ?と単純に疑問に思って調べてみた。

上海を逃れてやってきたのが角田の婆さんで、日本娘を5人連れて家が見つかるまで柳田の所でみなゴロゴロしておりました。急に日本人が増えて賑やかになり、美味しい物も食えるようになって、柳田はたいへんな張り切りようで家を探しておりました。すぐ、その当時一番賑やかで交通の便が良かったサムエークの角を借りて、そこでフジホテルの看板を挙げて開業しました。

当時のシャム女は、若いも老人も皆ザンギリ頭で皮膚の色は黒くて顔は角張って、どれもこれもビンロージュの実を嚙んで赤い唾をペッペッと道端に吐くので、とても気持ちが悪かった。

そんな時代にキレイナ色白の日本娘を連れてきて店を開いたのだからたまらない。たちまちのうちに店は大繁盛して、毎晩押すな押すなと突きまくられて万客大繁盛したそうです。婆さんは通称上海婆さんと呼ばれて一躍有名になり、これが日本娘のシャム進出の始まりです。

【出典】波多野秀著『タイ国在住六十年 ―想い出すままに』(1974)

まるで自分の話みたいに書いているが、この著者自身が渡タイしたのは1914年(大正3年)だから…1898年(明治31年)に先にタイに移住していた実兄の波多野章三とかから又聞きした話を書いていると思われる。

当時一番賑やかだったサムエークの角?

ヤワラー(チャイナタウン)は7月22日ロータリー近くにサムエーク郵便局があるけど、これの近くだろうか?

なんで場所が気になったかと言うと、1980~1990年代にかけて7月22日ロータリーの周辺にはジュライホテル、楽宮大旅社、台北旅社という日本人バックパッカー御用達の安宿御三家があったのは知っているが、な、なんとその3軒は元々の富士ホテル、バンコクニューホテル、旭ホテルという日本人経営の女郎宿(遊郭)だった!とかだったら面白ぇーなと。

でも、よく考えたらそんなわけがないか…

日本娘が体を売っていた時代から、ジュライホテル、楽宮大旅社、台北旅社に日本人バックパッカーが集まるまでには100年の年月が過ぎているし、7月22日ロータリー自体が1918年に出来たものだしな。

確か一度だけ行ったことがあるような気がするバンコク日本人納骨堂。

納骨堂の過去帳には「からゆきさん」(日本人娼婦)も載っている。

伊藤ユリ子はタイ政府雇西洋人の妾。ケイ子、ハナ子はバンコクで村上が経営した娼家の娼婦。村上は名を市松といい、バンコクの日本人娼家の主人である(朝日新聞1895年12月8日号)。ケイ子、ハナ子の出身地である長崎県南高来(みなみたかき)郡は島原半島にかつて存在した郡であり、その旧郡域は、現在の島原市、雲仙市、南島原市である。島原は熊本県天草とともに、唐行きさんの主要な出身地として知られている。最後に記されている梅子もホテルと称して日本人が経営した娼家の娼婦である。バンコクにおける日本人の娼家は,ホテルの看板を掲げていた。1915年にバンコクを視察した一日本人は次のように述べている。

『盤谷の邦商、シヤムに於ける邦人は其大部分盤谷にありて地方には極めて少数である、盤谷にも以前は百人以上もありたる由なれど現在は僅に六十人で,内二十人は賎業婦[醜業婦]なるも他は比較的落着いた生活をしている、写真屋が五軒、医師が二人、歯科医が二人、雑貨店は大小八軒程ある、青楼は英領土の如く公然許可されず、総てホテルの看板下に醜業を営んでいる、私の如きも最初車夫に日本人のホテルがあるかと問へば有りと答へたから然らば其処に行けと命じた、着いて見れば成程ホテルの看板はあるが妙齢の婦人が数名もゴロゴロしている、サーロン姿と云ひ口調と云ひ到底真面目の営業人とは見えぬ、ハテ不思議と思つていると、ホテルの女が此処は女郎屋だといふ、これにはしたたか閉口したが他に日本旅館なきまま已むなく欧羅巴ホテルといふに泊つた、宿料一泊八銖(一銖は新嘉坡の六十仙)である(台湾日日新報1915年6月15日、「暹羅近状視察談」)』

なお、「青楼は英領土の如く公然許可されず」という条は誤解である。タイでは1908年4月1日施行の性病予防法によって、バンコクの娼家・娼婦は畿内省に登録し一定金額を納入することが義務付けられ、この法律の範囲内で公然と営業ができた。しかし、日本人娼家はタイ畿内省によって完璧に掌握されていたにも拘わらず登録に応じず、公然たるヤミ営業を行った。

【出典】村嶋英治「1890年代に於ける岩本千綱の冒険的タイ事業 : 渡タイ(シャム)前の経歴と移民事業を中心に」『アジア太平洋討究』第26号、早稲田大学アジア太平洋研究センター、2016-2018

賎業婦w

『卑しい生業の女、淫売婦のこと』だって。

伊藤ユリ子は、シャム(タイ)政府のお雇い外国人・税関吏パロスの妾。

村上市松は、当時のバンコクで最大の日本人売春宿『盤谷(バンコク)旭ホテル』の経営者にして『日本暹羅(シャム)銀行』の重役という二足の草鞋。

『日本シャム銀行』は名前は立派だが民間の銀行で、しかもマカオ生まれのポルトガル人でイギリス国籍のデ・ソウザが1895年に設立した銀行。

ややこしいし、日系銀行を名乗ってるくせに日本関係なくね!?と思ったら、ソウザは横浜に住んでいたことがあって、“流行の帰化人を気取って”紋付袴を着て、日本人の妾と一緒にタイにやってきて、ちょっと日本語が話せたらしい。

アジア主義運動で知られる宮崎滔天によると、ソウザは横浜で詐欺まがいの事業をしてて、香港に逃げて、シンガポールを荒らして、バンコクに来た男だと。日清戦争に勝利して評判がうなぎ登りの日本の名を使って銀行を設立したっぽい。

怪しげな出資金で『日本シャム銀行』を設立して半年で潰したそうだが、出資金以前に怪しいところがいっぱい。

「パロスの妾」とか「ソウザの妾」といって、当時は外国人と結婚した日本人の女は“洋妾”と蔑称したみたいだから多分だけど本来の意味での妾じゃなくて実際には妻だったかも。

フジホテルだけはヒントがあったが、盤谷(バンコク)ニューホテルと盤谷(バンコク)旭ホテルの場所が分からない。

まぁ、130~140年前のバンコクなんて規模が知れてるだろうから、どうせヤワラーの辺りなんだろな。

仮に場所を知ったところでへー、そうなんだ…で終わる話だから、どうでもいいといえばどうでもいいが、せっかくなのでもうちょっとだけ調べてみた。

ラーマ6世がシャム国王に即位した1911年(明治44年)に、日本から仏教界を代表して曹洞宗第九代管長の日置黙仙というお坊さんが戴冠式に列席した。

その時の旅行記を著書『南国順礼記(大正5年)』に書いている。

明治44年当時のバンコクについて「シャム人の店がない」という章にこう書いてあった。

地図を開けて見ると、どうも今来た道がまぁ東京で言えば銀座通りという所だがと、さらに馬車を東へ南へ北へとまわしてみても、支那人の店はあるが、シャム人の店らしい家はない。驚くなかれ、シャムのバンコクという都は大通りにシャム人の店を見出すような所ではないのだ。(中略)バンコクの支那人街ではない、支那人のバンコクとなってしまったのだ。試みに在留邦人に尋ねると「さよう、まあ、シャム人の店らしい店といったらバンコク中に二十軒もありましょうか」。かような国には今度はじめて参ったと驚かずにはいられぬ。

ふむ、やはり盤谷(バンコク)ニューホテルと盤谷(バンコク)旭ホテルがあったとしたらヤワラーで決まりだな!!

と思ったら、こんなことが書いてあった。

ちなみに、自分のことを予(よ)って書いてある。

また、ウインザーの波止場の方で、予はアサヒホテルという屋号のある家を見た。また市の中央の地点で、富士ホテルとかいうのを見た。この二つの言葉は日本語であるので、ここにも日本人がいるのかとある人に尋ねたら、その富士ホテルというのは、上海婆子という東洋の天地を我が物としている老婦人が経営している店であって、前のアサヒと、他に二軒ほどホテル業があるが、これらは西洋人向けで日本人に用の無い家だという答えであった。予はあえてこれに注訳を加えないが、西洋人相手の職業を営む日本人も少しはあることを知ったのである。

1880~1890年頃からあった女郎宿が1911年のラーマ6世の戴冠式の頃にもあったってことは…20~30年は営業してたってことになるな。

ここで新たに旭ホテルの情報が出てきた。

ウインザーの波止場の方?

『南国順礼記(大正5年)』(著作権保護期間満了)に載っていたバンコク地図を見てみる。

ウインザーと書かれているところは…バーンコーレーム辺りか?

今でいう『アジアティーク・ザ・リバー・フロント』ってナイトマーケットがある辺り。

へー、そうなんだ…

バンコクニューホテルは分からなかったけど、もうどうでもいい。

ちなみに「からゆきさん」が体を売る日本人女郎宿にかんして言えば、バンコクなんかよりシンガポールの方が遥かに大規模だったみたいだ。

日露戦争(1904~5年)頃が最盛期で、「その数、四千人と称せられ日本着物に下駄という闊歩姿は、これが異国かと疑われるほど」で「吉原とまではいかないが、洲崎・品川あたりの盛況ぶり」だったらしい。

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