辻政信失踪の謎

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現職の国会議員が失踪!!

しかも紛争地域に乗り込むために変装して単身で旅立ち、そのまま行方不明!!

こんなウソのようなホントの話があったんです。

しかも我が日本の国会議員ときたもんだ。

55年前の1961年、現職の国会議員だった辻政信はラオスでお坊さんに変装して共産主義勢力の支配下に潜行し、未だ行方不明のまま。

今、オレの中で「辻ちゃん」と言ったら、元モー娘。じゃなく行方不明の方です。

辻ちゃんですが、実は元々超有名人。

大日本帝国陸軍の軍人で、大本営参謀としてノモンハン事件、マレー作戦、ビルマ作戦などを指揮して「作戦の神様」などと呼ばれていたらしいですが、実際のところ彼の実力の評価は大きく分かれるところ。

ま、個人的には・・・結果的に失敗に終わっている作戦を指揮してた人間を神様呼ばわりするようじゃ戦争に負けるわな!とは思いますが。

終戦と同時にバンコクで潜伏を開始。

もし戦犯として捕まっていたら死刑になっていた可能性が高いと思うけど、本人もきっとそれは分かっていたでしょう。

5年後に戦犯指定が解除されたら、逃避行の話を執筆した本で世に舞い戻りベストセラー作家に。

その後、ベストセラー作家から政治家に転身。

衆院議員を3期つとめた後、参院議員に鞍替えし「ちょっと東南アジアに行ってくる」と言ってラオスで行方不明に。

どこに消えたんだっ?!

と、なるわけです。

国会でも色々と取り上げてたようで・・・失踪直後の1年くらいが盛り上がってますね。

昭和36年10月25日の第39回国会 外務委員会では大臣が状況説明をしています。

○小坂国務大臣 それでは、その後というお話でありましたけれども、ずっと最初から申し上げましょう。現在まで判明しております辻議員の消息は大体このようになっております。
三月二十九日に辻議員から参議院の事務局を通じまして東南アジア諸国の政治、経済及び教育事情視察のためベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、ビルマ、香港に渡航するについて公用旅券を発給されたいという申請がございましたので、外務省は同議員の身分にかんがみまして、前例に従って三月三十日付の公用旅券三万三千八百五十三号を発給いたしました。香港以外の渡航先についてはいずれも査証が付与されたのでございます。
辻議員は四月四日に東京を出発されまして、同日サイゴンに着き、このサイゴン滞在中にゴー・ディン・ジェム大統領など政府要人に会見されました。サイゴンで初めて久保田大使に北ベトナムへ行きたい旨の意図を漏らされたので、久保田大使は極力翻意を促がしたという趣でございます。そのあと四月九日ごろプノンペンに行きまして四月十一日まで同市に滞在の上、さらにバンコックに行っておられます。
四月十四日ごろ同議員はバンコックからタイにございます大使館の伊藤助衛駐在官――この人はラオス大使館を兼務しております。この人とともにラオスへ参りました。ビエンチャン滞在中同議員はパテト・ラオの占拠する地区を通過して、ハノイに渡り、香港経由帰国する計画をラオスの別府大使に漏らしましたので、別府大使はその無暴なるゆえんを説いて、その計画を思いとどまるように説得に努力しましたけれども、辻議員の聞き入れるところとならなかったのであります。辻議員はかねてからこの計画を実行に移すため種々計画しておられたようでありまして、ビエンチャン市のクンタ寺院の住職に話をつけまして、そうして道案内の僧呂二名を伴って四月十九日ごろ間道を選んでビエンチャンから北上して、寺院から寺院へのリレー式な渡り方で奥地に入っていかれた模様でございます。第三番目の寺院から先の行方については、交戦地区のことでもありますし、確認されておりませんが、四月二十一日午前九時ごろパテト・ラオ地区へ入ったと思われるのでございます。
なお、出発に際して辻議員は髪を短かく切って、僧衣をまとって、青木という日本人高僧で、仏跡をたずねてラオスに来たというふれ込みでパテト・ラオ地に向かった模様で、携帯品はトランクに黒せびろ一着、若干の金子その他であったとのことでございます。
この後辻議員の消息が絶えたのでございますが、その後日本国内の新聞雑誌等に種々の憶測記事が散見するようになりましたが、政府としてもつとに事態を憂慮し、また御家族のこともございますので、自来数回にわたってラオス並びにその周辺国にあるわが方の大使館に同議員の消息の調査を命じて参りましたが、依然として消息は不明のままでございます。
八月二十四日にラオス駐在の別府大使から新事実に関する報告に接しましたが、これによりますと、この大使館はバンビエン、これはビエンチャン北方百十キロの地点でございますが、このバンビエンで辻議員とおぼしき人物に会ったと称する中国人がポン・フォン、これはビエンチャンから北方七十キロ、そこにおるという旨の聞き込みを得たのでございまして、さっそく大使館員を同地に派遣して調べさせましたところ、同人は同地で中国料理店を営む者で、米袋買い取りのため四月上旬バンビエンにおもむいたが、戦乱のために帰れなくなり、六月七日まで同地に滞在中辻議員に会ったと称し、かつ同人の申し立てによるその人物は辻議員と人相その他の状況もよく符合し、辻議員の写真を見せたところ、これは本人に間違いないということを確言した由でございます。なお現地大使館では、この中国人がバンビエンで辻議員に会ったことはほぼ間違いないとの印象を得た由でございます。
その中国人によりますれば、辻議員は五月中旬バンビエンに行きまして、同人の寄宿していた同業の中国料理店に両がえと飲食のために来た際に知り合いまして、六月七日同人がバンビエンを去るまで同地にいたということであります。
辻議員は、シェンクワン、これはプーマ政府とパテト・ラオ総司令部の所在地でございます、そこへ参りまして、プーマ殿下と会うことを熱望していた趣で、この中国人を伴って数回にわたってパテト・ラオの前線司令部を訪れた結果、六月初めにようやく許可書を入手した由でございます。
その後の経緯については推測の域を出ないのでございますが、プーマ殿下の方はチューリッヒでの三殿下会議に出席のため、六月二日ころシェンクワンを出発しておりまするから、辻議員がたといシェンクワンに行っても、プーマ殿下が帰来するまでは同地で待たざるを得なかったものと思われるのであります。
外務省といたしましては、他の方面においても各種の手段を通じて調査を進めてきた次第であります。つまり、辻議員がラオスから北越方面に抜けていかれた場合のことも想定して、二つの筋を通じて北越側に当たってみた次第でありますが、その結果これら二つの筋のいずれからも辻議員が北越に入られた形跡はないとの否定的な回答を受け取ったのでございます。
このほか、同地の公館におきましては、辻議員がパテト・ラオ地区に潜入された際に使われた寺院伝いのルートをたどる調査を行ないまして、辻議員の行き先の確認に努めておりました。
その後八月の二十四日に至りまして、前に申し上げた通り、別府大使からバンビエンにおいて辻議員に会ったと称する一中国人からの情報を入手しましたので、同議員がおもむかれた公算の多いと思われるシェンクワン地区について情報を入手するよう手配しておりましたところ、某国際機関を通じまして、十月三日付をもって、シェンクワン所在の最高権威筋より得た情報を入手いたしました。
この情報によりますと、シェンクワン所在の最高権威筋は辻議員と直接会見した事実はないが、同権威筋に達した情報によれば、辻議員は六月にバンビエンにいたが、その後のことはわからない、しかし情報によれば、辻議員はシェンクワンに来た後、ハノイを経て中共に向かったらしいということでございます。
この情報は間接的なものでありますから、辻議員がほんとうにハノイ経由中共に向かわれたかいなかは断定できませんが、このような線が一応出て参りましたので、外務省の出先機関はもちろん、その他諸種の調査ルートによる捜索を一そう強化して、この方面における同議員の消息の確認に全力をあげている次第でございます。

昭和36年6月7日時点でラオスのバンビエンにいたとされるのが最後の目撃情報でした。

バンビエン・・・いい町ですよねぇ~

でかいタイヤのチューブにお尻をスポンとはめた状態で川をひたすら流される『チュービング』が楽しいんだよね。

漕いだり、泳いだりしない、ただただ流れに身を任せて3時間くらい流されるだけって遊び。

辻ちゃんも半月くらいバンビエンに沈没してたみたいだから、チュービングやったかな?

CIA暗殺説とか、中国渡航説とか色々あるけど、案外チュービングで流され過ぎてそのまま行方不明になった『チュービング説』とかないのかな?

「辻政信 チュービング」で検索してみたけど、誰もその説をぶちまけてる人いないっぽい。

流され続けて、途中メコン川に合流。

そのままラオス、カンボジアを縦断してベトナムのメコンデルタに着いた頃には水を飲み過ぎて記憶喪失になってて、自分が辻政信だってことも思い出せないまま助けられたベトナムでベトナム人として生きた説。

残念ながら国会ではチュービング説は出なかったようです。

「辻議員は吉林省で日韓青年のゲリラ訓練をしている」

「東南アジアから共産軍側に入ろうとして、背後から米軍に射殺された」

議事録をサラッとみた限りだとせいぜいこんな説くらい。

ここまで書いておいてなんだけど、オレが今興味を持っているのは実は辻ちゃんじゃないんです。

辻政信が失踪する前に最後に会った日本人。

辻政信をビエンチャンで見送ったのが・・・

赤坂勝美

ベトナムで終戦を迎え、ホーチミン率いるベトミン軍に合流した後、ラオスのパテート・ラオ軍に合流し将校に。

ラオス政府軍に逮捕されるが、その後ラオス警察、首相官邸護衛長を歴任。

東京銀行ビエンチャン支店に勤務した後、在ビエンチャン日本大使館に勤務。その後、ラオスを国外退去に。

どんな経歴だよっ!!

彼の著書は2冊あって、両方とも毎日新聞社から出している『赤坂ロップ – インドシナのゲリラ隊長』(1968)と、『隻腕の斬込み隊長:仏軍を震え上がらしたラオスの元日本兵』(1968)。

どちらも絶版本で、『隻腕の斬込み隊長』は全然見つけられなかった(東大の図書館に1冊所蔵されてるらしい)けど、『赤坂ロップ』は古書で入手して読んでるとこです。

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