赤坂ロップ著:インドシナのゲリラ隊長

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ラオスに初めて行ったのは1998年、まだギリ10代だった。

タイを北上してチェンコンからメコン河を渡ってラオスのフェイサイへ。ボートを乗り継いでメコン河を下りルアンパバーンに行き、バンビエンを経由して首都ビエンチャン。陸路でサバナケットまで南下というルート。

当時は場所によってゲリラが出没したので陸路移動がちょっと危険で、「バスがゲリラの迫撃砲で撃たれた」とかホントかよ?!と思うような話もあったな・・・そういえば。

今では普通にジャール平原にも陸路で行けるみたいだけど、当時は危険で行けなかった。

未だに旧ソ連圏では残ってたりするけど、当時のラオスにもレギストラーツィアがあって、町に着くたびに警察署に出頭してスタンプも貰わないといけないのが面倒くさかった記憶が。

その後、バンコクに住んでいる時に半分ビジネス半分遊びでラオスに1度行ったくらい。

とは言っても、タイ東北部のイサーン地方は言語的にも文化的にもほぼラオスで身近と言えば身近。

ただ・・・タイで「コン・ラオ」(ラオ人)と言えば、話の流れによっては『田舎者』的な少し侮蔑のニュアンスを含む場合があるとか。

タイ語で疑問形として語尾につける『マイ』?の代わりに、わざとイサーン語(ラオ語)の『ボ』?をつければイサーン人には親近感を持たれてウケるし、イサーン人以外には訛ってる感でウケたりするとか。

日本における津軽弁的な立ち位置がイサーン語(訛ってて何言ってるかよく分かんない系)であり、ラオスのイメージってその延長線上。

明治時代に、列強であるフランスとの戦争で負けて従属国であったラオスとカンボジアを割譲することになるまでは宗主国だったという歴史的背景もあって、タイとしてはラオスを下に見ていると言ってもウソではないと思う。

そんなわけで、主にタイ目線でしか見ていなかったラオス。

そんなラオスで戦っていた赤坂勝美の書いた『赤坂ロップ – インドシナのゲリラ隊長』(1968, 毎日新聞社)を読んだ。

念のため言っておきますが、マック赤坂の親戚が書いた本とかじゃないです。

昭和48年6月14日の第71回国会 外務委員会で「赤坂勝美とは何者なんだ?」と話題になってた。

○星野力君 日本大使館員は赤坂勝美という人物で、現在も、私、先日ビエンチャンで確かめましたが、現在も大使館で働いておられる。まあいろいろこれは話題になる人物で、私、最近週刊文春五月十四日号にもその人物が出ているということを聞かされまして、ようやく手に入れたのでありますが、この週刊文春には辻政信氏――前に参議院議員であった辻政信氏が一九六一年四月、ビエンチャンから姿を消したまま今日に至っておりますが、あの問題を書いております。当時、バンコクの日本大使館の一等書記官であった伊藤知可士氏が辻氏に付き添ってバンコクからビエンチャンまで来た。その伊藤氏が去ったあと、辻氏と接触しておったのが、同じこの赤坂勝美、これによりますと赤坂ロップという名前になっておりますが、現にビエンチャンの大使館で働いておられる人、現地で雇用された人だと思いますが、この赤坂氏について、赤坂氏というのはどういう人物か、また、赤坂氏について辻政信氏のことをお調べになった――なっておられると思います、これは当然やっておられることと思いますが、調べられた事実があるのかどうか、辻氏とこの赤坂氏とのかかわり合いについて調査なさったかどうか、その辺のこと、簡単でよろしゅうございますから、御説明願いたいんです。
○説明員(穂崎巧君) 赤坂勝美は、現在ラオスの大使館の、日本大使館の現地補助員でございまして、もちろん外交官ではございません。大正九年生まれで、昭和三十九年一月に採用されまして、現在も引き続き勤務しております。本省から派遣された館員の監督を受けまして、庶務一般の便宜供与をやっております。
それからいま御質問のありました赤坂と辻議員の関係でございますが、これは私いま資料を持っておりませんし、かつて調査したかどうかも、私自身が、よく存じておりません。

センテンス・スプリング(文春)を情報源に国会で質問(笑)

星野君もこの本を読めば「赤坂勝美は何者なのか?」が分かって、国会で質問しなくてもよかったのにね。

もともと宇都宮歩兵第86連隊通信中隊にいた赤坂。

当時の階級はリヴァイ兵長と同じ兵長。

ベトナムで玉音放送を聞き「捕虜になって自分の運命を他人まかせにされるくらいなら」と仲間13人と部隊を脱走

ホーチミン率いるベトミン軍の新兵訓練を依頼されベトミン入り。

仲間12人(1人はベトミンとしての初陣で戦死)はそのままベトミンに残ってベトナム独立戦争を戦うが、赤坂だけラオスの自由ラオス軍(後のパテート・ラーオ軍)に。

右手を失うも、自由ラオス軍でゲリラ戦を戦い中尉から大尉に昇進。

捕虜収容所所長⇒シェンクワン省副知事を歴任後、ラオス王国政府軍に逮捕される。

ラオス警察に勤務後、首相護衛長に。

東京銀行ビエンチャン支店に入社後、在ラオス日本大使館に勤務。

27年ぶりに日本に帰国するが、2カ月後に再びラオスに帰国。

と、本で分かるのはここまで。

日本が戦争に負けた後のラオスは、再植民地化を狙うフランスとの独立戦争(インドシナ戦争)があって、それに続いて国内勢力が入り乱れてのラオス内戦が20年続くんだけど、赤坂が戦ったのは独立戦争の方でその後の内戦では戦っていないっぽい。

彼が加わっていた自由ラオス軍(後のパテート・ラーオ軍)は共産主義革命勢力なんだけど、インドシナ戦争当時は『独立』に主眼を置いていて、本人も「共産主義の話をされたことはなかった」と書いてある。

ただただ最前線でフランス軍と戦った軍人のゲリラ戦記。

ベトナムとしても地政学的に重要な場所にあったラオスが敵対勢力の手に落ちるのは避けたかったようで、かなりの軍事援助をしていた様子がわかるくらいで、あとは現場レベルの話。

本が出版された1968年以降の赤坂の動向はわかるかな?と思って、ラオ語でອະກະຊະກະ ຄัທຊຶມິ(アカサカ・カツミ)とອະກະຊະກະ ຮບ(アカサカ・ロップ)で検索してみたけど1件もヒットせず。

ブロードバンド普及率が0.1%の国では、そもそもネットを使っての情報発信自体がないみたい・・・

wikiの『日本』(ラオ語)のページには他の言語だったら沢山情報が載っているのにラオ語だとたったの6行。「アジアにある島国」という説明ですべて片付けられてる(笑)

ちなみに赤坂勝美が、辻政信を見送った話は12ページにわたって書かれていた。

これが辻政信の写真としては最後になったものかと思われる。

辻ちゃんのために変装用の僧衣を手に入れて、案内役の小坊主を用意した話など出発までの話は詳細に書いてあるが、やはり失踪以降に関しては彼をもってしても特段の情報は持っていないようだ。

本としても赤坂本人のゲリラ戦記が主だから、辻政信の話は最初にチラッと出てくるだけ。

ところが、赤坂はこの本を書いた10年後の1978年8月に突然ラオス外務省から国外退去通告を受け日本に帰国し、1985年に亡くなったようです。これ神奈川大学国際常民文化研究機構の資料情報なんだけど、ソースが分からない。

もともと自由ラオス軍(パテート・ラーオ軍)の将校だった赤坂。

1978年にかつての部下からパテート・ラーオ軍が辻政信を処刑して埋葬したという話を聞きつけて調査をしようとしたところ、突然国外退去になったとか。

もしこれが本当だったとしたら、触れてはいけないことに触れようとして国外退去になったか?

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コメント

  1. nm より:

    辻政信の失踪について、だいたいふつうの本にはよくわからんという感じで最後に1ページ位しか載っていません。
    当然もやもやしていましたが、この記事でだいぶすっきりとした気持ちになりました。
    脱走後12人はベトミン、赤坂勝美だけ自由ラオス軍とか、強烈な人だったんだなと面白味を感じます。
    念のために言ってもらえなかったら、マック赤坂とごっちゃになるところでした。

  2. より:

    有馬哲夫著「大本営参謀は戦後何と戦ったのか」では、CIA文書における辻のその後を書いてます。
    辻は拉致されて中国に連れて行かれたという内容ですが、そもそもの目的が「?」でモヤモヤ度は高くなります。
    赤坂ロップが国外退去になった話、橋本哲男著「辻政信と七人の僧」に本人談として載っているようです。これは直接読んでないですが、ソースはどうやらこれのようで。

  3. nm より:

    ご丁寧にありがとうございます。

  4. コ-プチャイ より:

    父・勝美の存在を知る人は、現下に於いて極々僅かであり、
    この様に資料の一端として父の軌跡を綴った事に感謝を表します。

    また辻政信氏失踪については、多種多様に情報展開され混乱は否めないが、
    辻氏の最期の消息を真誠知るひと、真正の著述を存知の方は教示頂きたい。

    山根良人氏が日本帰国を果された後、家族ぐるみで交流した事も懐かしい記憶。