久しぶりの読書記録
ロバート・ベヴァン著『なぜ人類は戦争で文化破壊を繰り返すのか』
タイトルに惹かれて読もうと思ったわけではない。
じゃあ、何で読もうと思ったのか?というと、ずばりジャケ買いである。
当然ながら原書の表紙はデザインが異なるが、原書房から出版されている日本語訳版の表紙がこれだ。
こ、これは…

完全にオレの写真だろ?
何も自分で四六時中ネットに張り付いて画像パトロールしているわけではない。
Webクローラーが勝手にネット上にある“オレの写真と似ている”画像を見つけてくるが、精度はかなり高い。
この本もWebクローラーが見つけてきたもので、オリジナル写真とオーバーレイして自分で撮った写真と断定。
表紙デザイン用にどこかで買ったんだろう。
ちなみに、写真はナゴルノ・カラバフのシューシで撮ったカラバフ地方の特徴であるツイン・ミナレットが残るモスクの廃墟だ。
より正確に言えば、オレが行った時は自称国家ナゴルノ・カラバフが実効支配する町シューシだったが、2020年のナゴルノ・カラバフ戦争でアゼルバイジャン軍が“悲願の奪還”をして以降はアゼルバイジャン支配下の町シューシャになっている。
最前線を突破しないといけなくなったので、かつてのようにステパナケルトから気楽には行けなくなったが、今年1月からアゼルバイジャンの首都バクーとシューシャ間を護衛付き観光バスが週2で結ぶようになったらしいので、行きたい方はアゼルバイジャン側からどうぞ。
なお、肝心の本の中でナゴルノ・カラバフは数行触れられているだけだ。
例として出てくるのは、ナチス・ドイツのホロコースト、ユーゴスラヴィア紛争、オスマン・トルコによるアルメニア人虐殺、チベットなど。
内容的には目から鱗的なことが書いてあるわけではなく、皆が「まぁ…そうだろうな」と薄っすらと思っていることを具体例を挙げながら整理している本。
ある民族を解体するための第一段階は、その記憶を消すことだ。その書物、文化、歴史を破壊する。それから別の者が新しい本を書き、新しい文化を製作し、新しい歴史をこしらえる。やがてその民族は自分が何者であるか、何者であったかを忘れはじめる。
作家ミラン・クンデラのこんな言葉を引用しているが、敵を殺すことと文化破壊は連動しているという話。
大村一朗著『シルクロード・路上の900日―西安・ローマ1万2000キロを歩く』
この本、いつ買ったんだろ…
はっきり覚えていないが、買ってから数年が経っているのは確かだが、1行も読んでいない。
2500円となかなかいい値段がするのにわざわざ買ったというのは興味があるから買ったはずなのだが、いざ届いてみたら興味を完全に失ったようで表紙をめくることすらせず本棚に眠っていた。
ざっくり言うと、1994年に中国の西安からイタリアのローマまで900日かけて歩いた徒歩ダーの旅行記。
ルートは、中国⇒カザフスタン⇒キルギス⇒ウズベキスタン⇒トルクメニスタン⇒イラン⇒トルコ⇒ブルガリア⇒ルーマニア⇒ハンガリー⇒スロヴェニア⇒イタリア。
これ、オレが日本に本帰国した時のルートと大体一緒で、西から東に向かったか、東から西に向かったかの違いだけで、馴染みのある地名がたくさん出てくるにもかかわらず読む前に興味を失くした理由は自分でもよく分からない。
まったく読む気にならなかったが、最近急に読む気になった…それだけ。
しかし、徒歩でユーラシア横断はオレにはムリというか、やりたいという願望もない。
せめて…せめてセグウェイに乗らせてくれ。
「古の旅人の息吹を感じるぜぃ!」とか言いながら直立不動でセグウェイに乗って『シルクロード・路上の900日―西安・ローマ1万2000キロをスゥーッと移動』という旅行記を書きたい。
読む気になって読んでみると、面白い。
1994年という“昔”の話だろうが、やってること自体が面白ければ時代はあまり関係ないと改めて思った。
自転車に乗った老人が追い越しざま声をかけてきた。白いウズベク帽に白いシャツ、よく日焼けした顔には深い皺と仙人ひげ。一見どこにでもいるウズベク族のじいさんだが、話を聞いて仰天させられた。ギアシフト一つないその古びた自転車で、中国国境にほど近いアンディジャンという町からはるばるやって来たという。
「で、どこまで行くんですか?」
「メッケじゃよ」
じいさんはサウジアラビアのメッカを目指す巡礼者だった。
ハンドルに布製のバッグをぶら下げ、後輪の荷台に小さなボストンバッグを一つ縛りつけている。荷物はそれだけだ。ボストンバッグの中身は水の入った三本のペットボトルで、じいさんは一本を引き抜くと私によこし「飲みなさい」と言った。
ウズベキスタンのフェルガナ盆地にあるアンディジャン。そこからチャリでメッカを目指すじいさんが登場したりする話が面白いと思えれば、この本は面白いはず。
アンディジャンからメッカは恐ろしく遠いぞ。
「中国国境にほど近い」という説明に若干「ん?アンディジャンと中国の間にはキルギスがあるけど…」とはなるが、一般的な日本人読者にとっては「キルギス国境に近い」と書かれるよりかはその距離の遠さをイメージしやすいから、わざとか? ウズベキスタンの中ではアンディジャンは中国に最も近いことは事実だし。
時代はあまり関係ないと書いたが、これがもし「セグウェイに乗った老人が追い越しざま声をかけてきた。じいさんはサウジアラビアのメッカを目指す巡礼者だった」という話だったとしても、それはそれで別の面白さがあるので結局は昔だろうが今だろうがどっちでもいいのだ。