3月末、さいたまスーパーアリーナで開催された格闘技イベントK-1がニュースになっていた。
県の自粛要請にもかかわらず主催者側はイベントを強行実施。
ニュース映像からは現場に多くの報道陣が来ているのが分かったし、開催の是非を問う街頭インタビューをしていた。
最近では、営業自粛要請に応じないパチンコ店は店名を公表するというニュースだ。
大阪では店名を公表されてもなお営業を続けていた店舗が最終的には「誹謗中傷する電話が相次いだ」として休業したという。
どちらのニュースからもオレは猛烈な違和感を覚えた。
もちろん開催や営業の是非にかんしては当然オレにも意見はある。
ただ、自粛するかしないかは要請された側の自己判断であってオレも含めて他者が判断する話ではない。だから他粛じゃなくて自粛なのだ。しかも要請(=お願い)しただけなのだ。
ウイルスを怖がる人もいれば、何万人が亡くなろうが気にしない人もいるだろうし、自分さえ無症状だったら他者に感染させても知ったこっちゃないという人もいるだろう。色々な考えの人がいるわけだから判断が分かれるのは当然である。
でも自粛しないのはおかしい!!
と考える人が多数いるから「自粛しないこと」…ただそれだけのことがニュースになる。
皆で新型コロナと戦っている時に間違っている!!
と考える人が多数いるから「自粛しないこと」…ただそれだけのことがニュースになる。
いやいや…
おかしいかどうか、間違っているかどうかはさておき、自粛要請ってそんなもんだから。
三者三様なのにもかかわらず自己判断に任せているわけだから、自粛する判断もあればしない判断もあるのは至極当然のこと。
そういうことを言うと「じゃあ新型コロナの感染が拡大してもいいのか!?」という話になるが、それは論点がずれておる。
感染拡大阻止の話をするのであれば、個人的には初期段階で強制力を伴う大幅な移動制限とかイベント中止・休業“命令”をして一気にグッと封じ込めた方が良かったんじゃね?と思ってる。
ユルユル、ダラダラと中途半端にやっても、いたずらに長期化するだけだろ?
面白いのが、強制力を伴う命令となると「権利の侵害」うんぬんの話が出てきたりするところ。それを言うならば、自粛要請に応じるか応じないかもまた個人の権利なのに。
まぁ、政治の責任逃れにも見えるけどね。
「営業自粛要請に応じないパチンコ店は店名を公表する」なんてのは、責任逃れに加えてかなり悪質な意図を感じる。
ちなみに…オレ自身はパチンコ不要論者で、業界ごと消えてなくなってもいいと思ってるくらいなのでパチンコ業界の味方ではない。
ただ上に書いたように、自粛要請に応じるか応じないかなんてのは店舗の自由である。それが“自粛要請”なんだから。
それを「お願いを聞いてくれなかったから世間に晒します」というのは、それによって世間の反感を買って村八分のノリで社会的リンチを受けることを期待しているのだ。
自分で直接手を下さず、炎上なり電凸なり店舗が私刑を受けることを期待しているのだ。
期待してなかったら公表する意味って何があるの?
社会の風潮を利用して国民をコントロールしようとする政治、これって実はけっこう危険なことのように思えるし、ある意味では理想形のようにも思えるが、オレはあまり好きではない。
そして、期待されている通りに公表された店舗に脅迫まがいの電話をしたりする人がいる。
そういう人たちの原動力になっているのは「今、皆が一丸となって新型コロナを封じ込めようと我慢している時に歩調を合わせないのは許されん!」という正義感だろう。
話は逸れるけど、古今東西を問わず戦争というものはお互いに正義を錦の御旗にして自己正当化するもの。アリストテレスが友愛があれば正義は不要だと言ったり、アダム・スミスが友愛に満ちた正義なき社会など崩壊すると言ったり、意外と『正義』って難しくて面倒くせぇやつなのだ。
さらに、正義感に溢れてる奴ほどムダに行動力があって面倒くせぇというね…
だけど利用価値は高いよね。政治は責任の所在を曖昧にしたまま彼らの正義感からくる私刑を利用して社会をコントロール出来るわけだから。
今の状況がいつまで続くか?は神のみぞ知るところではあるが…
オレはもう今年いっぱいは諦めている。気温と湿度が上がる夏になったら…とか楽観的希望を持つのは勝手だが、あまり関係ないだろうな。今の時期は蒸し風呂のような暑さのタイが非常事態宣言を延長しているのが良い例だ。
収束に向かったように思えて第2波、下手したら第3波とくることも考えられる中で、とりあえず年内は期待しないことにした。
さて、もうかれこれ1カ月近くなるだろうか?運動目的で深夜徘徊している。
町では「あいててよかった」あの居酒屋も「あいてなくてよかった」状態。
これは夜10時半ごろの東京駅八重洲中央口。
だぁ~れもいないので、あの巨大東京駅を独り占めできそうだ。