古き良き時代

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定期的に中学校時代の友達と飲み会をしている。

日程調整から、レストランの予約まで全部やってくれる人がいるから成立している話で、その人がいなかったら間違いなく続いていない。

コロナで久しく中断していたが、この前も久しぶりに集まった。

当然、偶に中学時代の思い出話になることがあるのだが…甚だ残念なことにほぼ覚えていない。

他人のことならまだしも、自分自身にまつわることすらほぼ覚えていないのだ。

「学校から突然いなくなって皆で探し回ったことあったよねぇー」

と言われても「え?オレが?」状態なのだ。

「そしたら橋の下で○○と一緒にいてさぁー」

と言われても「へぇ~、そんなことあったんだぁ…」としか言えない。

ほぼ記憶喪失である。

出来事を覚えていないならまだしも、同級生の名前を言われても、先生の名前を言われても、全くピンと来ない。

はっきり言って、名前を覚えている担任教師など一人もいない。

本来なら『中学時代の同級生』という共通の思い出を共有している旧友だからこそ集まってなんぼの飲み会に、全く思い出を共有していないオレが毎回呼ばれていること自体が謎だ。

認知症のおじいちゃんのリハビリみたいな感じで、オレに思い出話のシャワーを浴びせて記憶を呼び戻そうとしてるのか?

今のところ効果はゼロで、相変わらず何も思い出せない。

転校しているので通った中学は二つがあるがどちらも一緒だし、何なら小学校や高校だろうがビックリするほど覚えていない。

多分…オレの脳容量が小さいせいで、当時の記憶が別の記憶で上書き保存されちゃっているから当時の記憶そのものが消えているのだろう。

その証拠に、日本を出た直後からの記憶はけっこう鮮明に残っている。

19才の時、やっさんとか係長(あだ名)ら5人くらいでパッポン2の2階にあるゴーゴーバーに行ったらぼったくりバーで、払わないってなったら店の用心棒が拳銃を出して来て、そのうえ店の入口のシャッターを下ろして閉じ込められそうになったから、係長だけ置いて皆で走って逃げたこととか全然覚えている。

まず名前を覚えているのがすごい。同級生の名前は覚えていないのに、20代前半のくせに老け顔で、でも偉くはならずせいぜい出世してもここら辺止まりだろう!という理由で命名された係長のことは覚えているってすごい。

さすがに店の名前までは覚えていないが、シーロム側から入ってすぐの右手と、店の場所はちゃんと覚えている。

小中高の思い出でムエタイ上がりの用心棒に拳銃を出された出来事があったらきっと忘れてないんだろうけど、「学校から突然いなくなって橋の下でサボってた」とかネタ的に弱すぎて記憶保存の優先順位が低かったんだろうな…オレの脳では。

自分にとって、より強烈で、より楽しかった時代の思い出によって、それ以前の思い出が上書きされてほぼ消えてしまったのだ。

そんなわけで、もしオレが自分にとっての“古き良き時代”を定義するとしたら26才までのバンコク在住時代になり、どれほどの古き良き時代か?と言えばそれ以前の思い出のほとんどが上書き消去されちゃってるくらい。

学生時代もそれなりに楽しかったはずなんだけどな…何で覚えてないんだろ?と考えると、それしか考えられない。

ここで思うのが、各自それぞれが持っている古き良き時代って、その人がその時代に社会的弱者じゃなかったことの裏返しなんじゃないか?って。

全部が全部そうとは限らないだろうけど、多くの場合はって話。

1950年代のアメリカを“古き良きアメリカ”と表現する人って、あくまで白人目線の“古き良きアメリカ”像を盲従しているだけであって、今よりも遥かに有色人種に対する差別の残っていた時代であったことは念頭にはないのだろう。

もしくは単純に50年代のレトロ・デザインを指して“古き良きアメリカン・デザイン”的な意味合いで使ってるかのどちらか。

今は知らないが…オレの“古き良き時代”では、自分が歩行者の時に自動車と事故を起こしたら這ってでも逃げろと言われていた。

とどめを刺しにバックで追い轢きされるからと。

理由は単純で、人を轢き殺しても法律上MAXで30万円(もしくはもっと低かったかもしれない)くらいを賠償するだけで済むが、下手に重傷とかだと入院治療費で遥かに高額の賠償が必要になっちゃうから。

重傷でその後の入院治療費を考えたら…と、とどめを刺しにバックしてくる。

逆に自分が轢いちゃったら「決して車から出ないでください」と日本大使館から通達されてたな…そういえば。

怒れる家族が近くにいたら集団リンチを受ける危険性があるから、と。

被害者保護の仕組みがないし、人の命は安いし、色々なことがユルユルだったのに、そんな時代を「古き良き時代だった」と言えちゃうオレは、実際に楽しかったのと同時に、そこで社会的弱者ではなかっただけの話。

お金の力でそれなりに融通が利いてしまう社会も、どちらかと言えば不利益よりも利益を得る側寄りだったからな。

オレくらいの小物だと、交通違反をしてもチョロっと袖の下を渡して見逃してもらうとか、免許センターでチョロっと袖の下を渡して筆記試験を100%合格にしてもらう(筆記試験自体は他の受験者たちと一緒に受けたが、隣で試験官が答えを全部教えてくれる)とか、その程度でかわいいもんだが…

お金の力で司法を捻じ曲げられるくらいの大物に殺されたら、遺族にとっては“良き時代”なわけがない。

皆さまご存じエナジードリンク『レッドブル』創業家の御曹司なんかいい例。酒を飲んでコカインを吸った状態で170km/hでフェラーリをぶっ飛ばして、警官を轢いて翼をさずけちゃった事件。重要証言の目撃者が事故死したり…色々あって不起訴に。

あれから10年経つが、未だに捕まっていない。お金の力で融通が利かない社会だったら、間違いなく今も刑務所に入っているはずなのに、だ。

多分、社会って弱者の基準に合わせてゆく発展の仕方をしてるんじゃないかな。

社会的弱者からすれば過去より現在の方がより良くなっていっていると感じるのかもしれないし、逆にその社会の変化を窮屈に感じる人っていうのは過去も現在も社会的弱者になった経験がないのかもしれない。

持てる者と持たざる者の間の不平等が是正されてゆくと、持てる者にとっては窮屈に感じ、持たざる者にとっては進歩に感じる…そんな視点の違い。

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