外人とファランとムズング

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『外人』という単語は差別だから使わない方がいいらしいって話について。

これに関しては、ポリティカル・コレクトネスの流れによる言葉狩りとか、ただの外国人の略なだけとか、自分たちの社会や文化に対して外側の人とか…色々と捉え方があるようだが、オレ的には「外側の人」という意味での単語として『外人』を使う。

人が外国に行く理由なんて色々あるだろうが、日本人を例にすれば「窮屈な日本を飛び出して海外に住みたい!」なんて理由で外国に行く人も一定数はいるだろう。

これって実は言い換えれば「外人になりたい」願望ってことだと勝手に思っている。

自分自身を振り返ってみれば、10年だけだけど外国人として…と同時に外人として生きてみたことがあるわけだが、外国人であるという国籍上の問題ではなく、あくまで「外側の人」としての外人であることの居心地の良さはあった。

オレの場合、外人でいられるから海外にいたと言っても過言ではない。

窮屈な日本を飛び出して自由を求めて海外…なんて、隣の芝生は青く見えるのと一緒。

実際にはどんな国にも、文化にも、日本と同じように暗黙の了解・ルールとか同調圧力とかタブーとか“窮屈”に感じるような要素なんて存在しているわけで、海外に行ったから自由(になった気分)を謳歌できるわけじゃなく、程度の差はあれど外人であることで免除されている部分があるから自由(になった気分)を謳歌できるだけの話。

オレは勝手にこれを外人特権と呼んでいるが、自分にとって面倒くさいこととか、都合が悪いことの時は外人特権を発動させて「外人だからしかたないか…」と免除してもらうことで居心地の良さを追求できちゃうのである。

意図的ではないにしても、現地の人間に「外国人だからしかたないか…」と思われて無自覚のまま外人特権を享受している場合だって多々ある。これって国籍の違いが理由付けになっているというより、本質的には“外人だから仕方ない”と免除されているだけ。

あくまで隣の芝生は外側から見るから青いのであって、内側の人になってしまったらもはや隣ではなくなるから青くないのだ。

これ自体は特権と呼べるほどのことかは微妙だが、この話の延長線上にあるようなことがオレの言う外人特権。

コンビニの日本人店員が「外国人の名札」を着けたら…客の態度に劇的変化

片言で話し、「外国人留学生のふり」をして接客したところ、客からの「過剰な要求」が消えたという。

「たとえば、箸やスプーンを何本つけるかとか、1秒でもレジを待たされると怒り出すとか――。普段は『黙っていても分かれよ』というようなスタンスで接してくるお客さんが少なくありません。

でも、こっちが『外国人』だと何も言ってこなくて、大体はマニュアル通りの対応で済みました。お客さんも過剰に『日本人』に期待しすぎているのかもしれないですね」

わざわざ『外人』という単語を使わず、記事内のように『外国人』で良さそうな気もするが、オレ的にはちょっと違うので本当は使い分けたい。

仮に某国籍の方が総合的に自分にとってメリットが大きいと判断すれば、日本国籍を捨てて某国籍になって“某国人”になることに心理的ハードルはない。

ただし、国籍上は某国人になって現地人として住むことになったとしても、あくまでも“外人”として住みたい。別の言い方をすれば、外国人か否かの国籍の違いなんてどうでもよくて、外人でいられるか否かが大事。

ただ…オレみたいな人とは異なり、心底その国に、その文化に溶け込みたいと思っている人がいることもまた事実である。

そういう人にとっては、いくら溶け込む努力しても外人扱い・呼ばわりされるのは疎外感を抱いて差別と感じるだろうな。

結局のところ、なぜ外人扱い・呼ばわりされるのか?となると、行き着く先は見た目で判断されるということになるだろうから。

外人という単語そのものが差別用語かどうかというよりも、知りもしないくせに他人を外人判定することが差別になるんじゃなかろうか?

ただ…これがまた悩ましいところで、オレが勝手に主張している「外人だからしかたないか…」の外人特権って、いかに見た目が外人然としているかも重要だからな。見た目が現地人と同化していたら外人特権は自動で発動せず、現地人と同じに扱われる→しゃべってようやく外国人と認識される→「なんだ、外人か…ならしかたないか…」と手動で外人特権が発動。

ダイレクト外人ではなく、ワンステップ挟む外人でひと工程が増えちゃうが…よく考えたら、南アフリカに住んでた時はダイレクト外人だったが、タイに住んでた時はワンステップ挟む外人だったから…全然問題ないぞ!!

というか、どちらかと言えばワンステップ挟む外人の方が良いかもしれん。

黙っていれば現地人と完全に同化、国立公園とか遊園地とか外国人料金があるところはタイ人のふりをしてタイ人料金で入る、都合が良い時だけ「オレ、外人ですよ」アピールで外人特権を享受。

こっちの方が外人ON・OFFの選択権が得られてより都合が良いかもな。

それと比べると、やはりダイレクト外人の方が見た目で判断されて自動発動しちゃって、こちらにON・OFFの選択権がないからリスクが高い。

1200人以上の中華系インドネシア人が虐殺された5月華人排斥暴動の直後から1年ほどインドネシアをブラブラしてた時は、若者集団から「インドネシアから出ていけ!」って叫びながら握りこぶし大の石を投げつけられたりしたもんな、そういえば。

ちなみに、場所はジャヤプラ。石は投げられていないがメダン、スラバヤ、ジャカルタでも「殺す」って喧嘩売られたりして…懐かしいね。

この場合、見た目の判断でダイレクト華人が誤認識発動したわけで、ワンステップ挟む外人だったら「尋ねてみたら華人じゃなかった」と石を投げられることもなかったし、オレが投げられた石を拾って投げ返すこともなかった。

うむ、ワンステップ挟もう!

あと、何人だろうが人に石を投げるのは止めよう!

さて、日本語の『外人』と似たような言葉は外国語にもある。

タイ語で言うところの『ファラン』の場合は完全に見た目だけで、白人にしか使わん。

普通によく使う単語で、ファラン在住者も自分のことをファランって名乗るくらいだ(見りゃ分かる)が、ファラン旅行者の中にはファラン呼ばわりされることを嫌がる人がいないこともない。

国籍は関係なく、同じアメリカ人でも白人ならファランだが、アフリカ系はファランではない。よく分からないのがロシアの白人で、ファランとも呼ばれるけどロシア人と分かったらコン・ラスィアー(ロシア人)と呼ばれがちなのが謎。

ファランって単語、中世に西ヨーロッパを統一したカール大帝のフランク王国からきてるみたいで、ヨーロッパ人=フランク人から欧米人=ファランになったんだろな。

ハッ!タイ人はゲルマン民族のフランク人と、スラヴ民族のロシア人をはっきり区別しようとしてるのか?!  いや、絶対そんなこと意識してないはずだが…謎だ。

そんなタイから遥か遠いアフリカのエチオピア。

アムハラ語やオロモ語で(知らないけど多分ティグリニャ語も)『ファランジ』、カンバタ語だと『ファランジャ』になるらしいが、タイ語の『ファラン』よりも定義は広く白人以外でも、日本人でもファランジ呼ばわりされる。

使われ方としては…

ファランジ、ファランジ、ファックユー!!

田舎を歩いていると、ガキどもが知ってる英語を使いたくて一生懸命に話しかけてきてくれる。より英語を使いたい意識高い系の場合「ユー、ユー、ファックユー!」の(一応)全て英語パターンも有り。

挨拶だと思ってるのか?と、ファックユー返しをすると「あのファランジが、ボクらにファックユーって言ってきた!」と周りの大人にチクって被害者面したりするので、どうやら意味は正しく理解しているようである。

昔…昔ね、主に今の南西エチオピア諸民族州を含む南部諸民族州あたりでファックユーが流行ってたが、今は知らん。

日本人の場合は、ファランジに加えて『チャイナ』呼ばわりされることも多いので忙しい。

エチオピアからちょっと南下してバントゥー諸語の世界に入った途端、あの有名な『ムズング』が待ち構えている。言語によってムルングとか多少の違いもあったりするが、ムズング圏の方が圧倒的に広い。

アフリカ探検でウロウロしていたヨーロッパ人を指す“放浪者”を意味するため、狭義には白人を指し、広義には外人全般を指す。あえて外国人全般としなかったのは、ケニア人がナイジェリア人を指してムズングとは呼ばないからで、国籍というより自分たちとは明らかに見た目が違う人、自分たちより肌の色が明るければムズングになりうるが、地域によっては人種も国籍も肌の色も関係なく“金持ち”を指す場合や“英語を話す人”を指す場合もあるみたいだ。

ちなみに日本人は『チナ』呼ばわりされることも多く、体感的にはムズングよりチナ多め。

使われ方としては…

ムズング、ムズング、ハゥアーユー?

田舎を歩いていると、ガキどもが知ってる英語を使いたくて何度「オレは元気だ」と教えてもしつこく聞いてくる。だが、エチオピアのガキより遥かにまともな英語を覚えたようなので、健全といえば健全。

これがチチェワ語圏だと…

ムズング・ボー!

ムズング、ハゥアーユーとほぼ同じことなのだが、元気?みたいな(教科書には載らない、ガキしか使わない)挨拶になる。

もしくは単に「ボーボー」でも挨拶になり、元気だったら返事は「ボー」。

とりあえず適当にボーボーボーボー言ってりゃいい。

色々書いたけど、今後は『外人』という言葉は使われなくなっていくと思う。

オレの書いてきたことも『外国人』という単語に含有できるわけで、いわゆる(自分が思っている定義の)“日本人”以外を『外国人』と呼べば結局同じことだが、言葉としての『外人』は消えてゆくだろうな。

別にその流れに抗ってまで固執するような話でもない。ただオレの思考を説明するのがより面倒くさくなるだけ。

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