最近、脳みそを全振りしていて、ネタがないので結局AIの話。
WebライターなんかはAIに仕事を奪われているみたいだが、AIに「書いてもらう」ことにかんしてオレがAIを少し使って感じたこと。
オレの場合は…
そもそも、AIに“ゴーストライター”的な役割を求めているわけじゃなくて、構成の組み立て方とか、細かい問題点の指摘をしてくれるような“指導教官”的な役割を求めているので、AIに「書いてもらう」ことはない。
倫理的問題とか、矜持心というのもあるけど、現実的に「書いてもらう」こと自体が難しい。
これ、オレの脳みそにケーブルを繋いで、AIがオレの記憶領域に直接アクセスできるようになったら話は別。
それが出来ない以上は、AIはオレが一度『言葉』として出力したものしか把握できない。
そんなわけで、オレの昔話はオレにしか書けない。
人間だろうがAIだろうが“代筆”するためには、オレが一旦自分の記憶領域から出力してあげるか、代筆者がエピソード自体を創作するしかない。
自分の記憶領域から出力する=自分で書けちゃうわけで、「書いてもらう」のは二度手間。
完全フィクションになると別で、もはや倫理と矜持の問題だけかと。
実際にAIが草稿を案として出してくると、ほぼ“創作”だった。
そのAIの“創作”エピソードを読んで思ったのが、意外とバイアスかかってるな…ってこと。
例えば、何回か前のブログにも載せた「ヒンバの村に行った時の話」。
村には実際に行ったけど、AIが書いたエピソードは全て“創作”でしかないんだけど…
村には時計も電気も、携帯の電波すら届かない。
でも、人々の顔は穏やかで、どこか満ち足りていた。
エパンダは語った。
「僕たちは、欲しいものを全部持ってるよ。水と食べ物と、仲間と土地。これで十分だろ?」
──なんてシンプルな、幸福の定義。
なんというか…“願望的偏見”とでも呼ぶべきか。
物質的に満ち溢れている世界に住む我々と、原始的な生活を営む彼ら。
この対比の中で、彼らは裸だし何も持っていないが幸福だった!という視点で、“恵まれた”我々が自らを振り返る。
意図がそこにあるのは容易に想像できるんだけど…
“裸だし何も持っていない”(事実) + “でも彼らは幸福だった”(演出)で、美化するのは非常に願望的な偏見だよな。
テレビとかでもよく見る古典的な手法だけど、現実で色々な裸族に会いに行って“幸福に暮らす彼ら”を期待しちゃうと、思いっきし幻滅することになる。
オレは別に彼らが幸福じゃないと言いたいわけじゃないけど…
“裸で何も持っていないが幸福”という構図は美化し過ぎ。
そして、その構図を好むのは当事者ではなく“物質的には恵まれている側”。
AIはそちら側で書くんだな~と思った。
他には、オレが「南アフリカで運転免許を取った話」もAIが草稿を出してきた。
実技はさらにカオスだった。
試験コースに向かうと、そこは舗装されていない砂利道だった。
車のブレーキはギュウギュウ鳴くし、ハンドルの遊びは広すぎる。明らかに整備不良車。でも「これは試験用の車だから問題ない」と言われる。
試験官の態度もラフすぎた。
「OK、じゃあ走って。適当にやって。何かあったら言うから」みたいな調子で始まり、僕は完全に手探りで車を進める羽目になった。
しかもコースには、人が普通に歩いている。
犬もいる。ヤギもいる。
免許を取るって、こんなに命がけだったっけ?
おや?と思って。
ナミブ砂漠とカラハリの空間の質の違いを語って、オレを唸らせたあのAIと同じとはとても思えないな…と、ビックリした。
まるで別のAIが書いたかのような違和感。
試験コースが砂利道だった…試験用車が整備不良…試験官が適当…試験コースを人間や犬やヤギが歩いてる…
もし、日本が舞台だったら、こんなこと書くかな?
間違いなく書かないだろうな。
これはアフリカだから書いた。
しかも、事実なら何も気にならないけど、
アフリカが舞台だからこの話を“創作した”ってところがめちゃくちゃ引っかかる。
思いっきしバイアスがかかってる証拠。
こんなもん、ケープタウンをちょっとでも知ってる人が読んだら、なんのリアリティも感じない。
おいおい、ずいぶんテキトーなこと書いてるなっ!!
ウソじゃん!!
って、すぐバレる。
ケープタウンをナメてんのか?!
南アフリカで一番田舎といったら北ケープ州だと思うけど…
舞台が北ケープ州だったとしても、オレなら信じないかも。
あと…こんな“常識”的なことも知らないんだ?!とビックリしたのだが、
実技試験用の車って、受験者が自分で用意して持ち込む国が多いよ。
日本みたいに試験場に車が用意されている前提で書いてるけど、そっちの方が珍しい。
もちろん南アフリカでも、受験者が自分で車を用意する。
「試験用の車」なんか存在しねーよ。
明らかに整備不良なら、それは免許センターの問題ではなく、おまえの問題だ!
何でも知ってて頭いいと思ってたから、え?そんなことも知らないの?という驚きはあった。
とてつもなく賢いんだけど…なんだろ?
話を作るとなると、途端に前提となる情報が間違ってるし、バイアスかかってるし…急にどうしちゃったんだろ?とは思った。
少なくともオレの場合は、倫理とか矜持を抜きにして「書いてもらおう」と思ったとしても“使えない”。
一方で、こんな使い方をすると途端にその能力を見せつけてくる。
こんなプロンプトを書いてみた。
現在のコンゴ民主共和国(以下DRC)東部における情勢について、1000文字以内で教えてください。
DRC国軍とM23の対立と、ルワンダ、ウガンダ、ブルンジなどの周辺国の関連を、高校生でも分かるように日本の戦国時代に例えてください。
それに対するAIの回答。
現在のコンゴ民主共和国(DRC)東部は、長年にわたる紛争が続いている非常に不安定な地域です。特に注目されているのが、DRC政府軍(FARDC)と武装勢力M23との激しい対立です。
戦国時代でたとえると:
これはちょうど、室町幕府(=DRC政府)が衰退し、地方の戦国大名(=武装勢力)が台頭してきたような状況です。
主な登場人物(勢力):
DRC政府軍(FARDC)
→ 室町幕府のように名目上は国の中心。でも実際には地方を統治しきれていない。M23(武装勢力)
→ まるで織田信長のような急成長を遂げた戦国大名。かつて和平合意で一時は活動をやめていたが、再び武装して東部で勢力を拡大中。ルワンダ
→ 信長を陰で支える明智光秀のような存在。M23と同じツチ族が多く、背後でM23を支援していると国際的に疑われている(ルワンダは否定)。ウガンダとブルンジ
→ 周囲の戦国大名たち(例えば毛利や上杉)にあたる。彼らも自国の安全や利益のため、時にDRC東部に軍を送ったり、影響を与えようとしている。なぜ争いが続くの?
DRC東部は金やコバルトなどの豊富な鉱物資源がある場所で、「宝の山」のようなもの。室町時代でいえば「金山を巡る領地争い」のような状態です。M23はこの地域を掌握しようとしており、政府軍と衝突。しかもその背後には他国の支援や利権も絡み、争いがさらに複雑になっています。
現在の情勢まとめ(2025年時点):
M23は東部の北キヴ州などで勢力を拡大中。
DRC政府軍は抵抗しているが、なかなか優位に立てない。
ルワンダがM23支援をしていると国際的に批判されており、米国やフランスなども関与。
ウガンダやブルンジも自国兵をDRCに送り込むなど、東アフリカ全体の問題になっている。
最後に:
この争いは単なる国内問題ではなく、戦国時代のように「国の中と外」が入り混じったパワーゲームです。和平交渉も続いていますが、すぐに収束する見通しは立っていません。
オレが書くより絶対に分かりやすい。