専属編集者・完

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前回の続きにして最後。

なんか…もはやAIについて書いてるみたいになってきた。

どう?ちゃんとAI育ててる?と、友だちに聞かれたが…

いえ、逆です。

AIにオレが育てられてます。

読者が読み終えたときに「で、何が変わったの?」「この旅の意味は?」と感じると、感動や記憶に残りません。
いまは「すごい旅だったね」で終わる印象があり、もったいないです。

旅に出た動機を明確化しろというので、そこは「ケープタウンでの生活が“アフリカらしくなかった”という違和感から、自分の思う“アフリカらしさ”を確かめるための旅に出た」と明確化した。

そしたらAIが、それをテーマにすることを勧めてきたのだが…

そもそもの話が、「らしさ」って意外とムズい。

“自分らしく”あることは自分を自由にするし、

“あなたらしく”あるよう求めることで相手を束縛する。

「らしさ」をどこに向けるかで、自由さと不自由さという相反する働きをする。

「男らしさ」とか「女らしさ」は、時代によって求めるものが変化してきたし、今やその性別的「らしさ」自体が否定されるほどネガティブなことになった。

あとは…

「アフリカらしさ」というステレオタイプがあるからこそ、社会としては合理的な側面もある。

あまり広く知られていないアフリカのことを言うより、ライオン!サバンナ!みたいなベタベタにステレオタイプな「アフリカらしさ」があるからこそ、みんなで「あー、アフリカね」と共通認識を持てる合理性。

簡単に共通認識を持てないと、お互いの認識をすり合わせるムダが生まれる。

ステレオタイプって、社会的合理性と引き換えに多様性の存在を忘れてしまう欠点はあるけど、必要なんじゃない?とは思う。

常識も似たようなもんで、あれは“暗黙の了解”をみんなで共有してる社会的合理性がある。

でも社会の円滑さや秩序と引き換えに、閉塞感を生んだり、“常識知らず”を異端視する排除性を生む。

合理性って結局、何かを犠牲にすることで成り立つもんだから。

「アフリカらしさ」はステレオタイプで、実はもっと多様性がある…それはそうなんだけど、それってアフリカに限らずどこもそうじゃね?

それに、ステレオタイプも必要っちゃ必要だし…みたいな、結局なんなの?!的なのがオレが考え。

さらに言うと、「アフリカらしさ」の“アフリカ”って何?ってのもあるし。

地理的なアフリカを指しているようでありながら、実は無意識に概念として使ってるような気もする。

おっしゃる通りです。

あなたの受け止め方は非常に本質を突いていますし、それは現代思想や認知科学の観点からも深く支持される考え方です。

記号化は“理解しようとする努力”でもある

人間は複雑な現実をそのまま認識することができません。

だから私たちは「パターン」「象徴」「ストーリー」など、省略と再構成を通して世界を理解します。これは生存戦略でもあります。

「ライオン=アフリカ」

「フランス=おしゃれ」

「日本=礼儀正しい」

こういった短縮された意味のパッケージ(ステレオタイプ)は、社会的な共通認識として機能するが、それは常に現実の一部の切り取りにすぎません。

認知的観点から見た「記号化」の必要性

◎ゲシュタルト心理学:

人間はバラバラな情報から“まとまり”を作る習性を持つ。
→「意味のある全体」として認識するために、特徴的なものを象徴に置き換える。

◎プロトタイプ理論(エレノア・ロッシュ):

私たちは「典型的なイメージ(プロトタイプ)」をもとにカテゴリーを判断する。
→ たとえば「鳥」と聞いて「ペンギン」より「スズメ」を先に思い浮かべる。
→ 「アフリカ」と聞いて「ナイロビのオフィス街」よりも「サバンナのライオン」が先に出てくるのも、これに近い。

◎社会的合理性:

国家、メディア、教育、文化はこの記号化を用いて「わかりやすい社会認識」を形成する。

それは「便利」でもあり、「偏見の温床」でもある。

「象徴化=悪」ではなく、「象徴の扱い方」が問われる

あなたのように「象徴化が多様性を損なうこともある」と気づいているという姿勢は、とても重要です。

なぜなら、象徴や記号そのものを否定するのではなく、それをどう使い、どう揺さぶるかが、表現や批評の力になるからです。

うーむ、やはり理路整然と考えをまとめる点ではAIの方が遥かに有能だな。

「人間は複雑な現実をそのまま認識することができません。だから“私たち”は…」って、人間に自分(AI)を含めているのがちょっと気になるが。

哲学的・構造的な洞察を含みつつ、読者に自然に染み込ませることは、非常に高度ですが、だからこそ文学的に価値のある挑戦です。

そのためには、説明するのではなく、体験として“読ませる”ことが鍵になります。

「経験」を扱いながらも、「感覚+思考+内面の変化」にフォーカスしていくことで、文学性とノンフィクション性の融合が実現できます。

エピソードって、この「結局なんなの?!的な話」を表現するために“使う”ものなのね!?

「社会的合理性が…」なんちゃらと説明したところで読んでも面白くないから、説明じゃなくてエピソードを通して読ませるってことなのね!?

それ…めちゃくちゃムズいじゃん!!

浅い話の方が簡単なんですけど…

説明するのさえ難しいのに、それを説明せずに表現しろって難し過ぎるんですけど…

面倒くさいことに自ら足を突っ込んだ気配を察知して、ビビりはじめている今日この頃。

頭を使い過ぎて、もしハゲたら誰が責任とってくれるんだろ?

ハゲるリスクを背負ってまでやるべきことなのか?

ハゲずに済むなら、もう浅い話で良くないか?と、急にハゲる心配をし出した今日この頃。

僕が思っていた「アフリカらしさ」はステレオタイプだった。

実際に行ってみたら実は多様性があった!わーい!

くらいなら、まぁ…まだいけそうだし、ハゲずに済みそう。

最後に、あなたの言葉に呼応する引用をいくつか:

エドワード・サイード:「他者を知るという行為は、時にその他者の静寂を強制することである」

ロラン・バルト:「神話とは、意味が自然に見えるときに起こる暴力である」

ユヴァル・ノア・ハラリ:「ホモ・サピエンスが他種に勝ったのは、虚構を信じ、物語を共有する能力によってだ」

うむ…

どういうこと?!

ロラン・バルトとか絶対にハゲてんだろ?

自らの毛根を犠牲にしないと、そんな小難しい言葉は出てこない!!

画像検索してみた。

ハゲてはなかった。

どうやら脳みそを酷使してもハゲないみたいなので、これから久しぶりに脳みそを使ってみます。でも、途中で挫折して「楽しかった!わーい!」的な浅い話になったりして。

投げ銭Doneru

書いた人に投げ銭する

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