山根良人著:元日本兵の記録 – ラオスに捧げたわが青春

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赤坂勝美に触れておいて、この人に触れないわけにはいかないでしょう。

山根良人

彼の著書『元日本兵の記録 – ラオスに捧げたわが青春』(1984、中央公論社)を読んでみた。

まず何者か?というと、

もともと第5飛行師団に所属する部隊の伍長。

終戦後にベトナムのサイゴンで武装解除されるが、軍用トラックを盗んで脱走。

カンボジアを経由してラオスに逃げたところで、独立のために戦う新兵の訓練を依頼され自由ラオス軍(後のパテート・ラーオ軍)入り。

色々あって、自身が率いる中隊ごと敵対するラオス王国軍に帰順(寝返り)。

22年後、ラオス国王から伯爵の位を授けられる。

最終階級はシャアと同じ大佐で、タケク方面軍司令官としてタケク攻防戦を戦うもパテート・ラーオ軍の前に降伏。

戦後30年間ラオスで戦い続けてサワット大佐と名の知れていた山根は軍役から退き、在ラオス日本大使館に勤務後、1982年に家族を連れて日本に帰国。

赤坂勝美と山根良人を比較してみると・・・

日本が負けたことを知って脱走した理由。

赤坂「戦争はこれからだ、陛下のために、と思いつづけていた緊張感がプツンと切られた虚脱感。(中略)祖国日本に帰っても収容所に入れられて、屈辱の生活に甘んじるだけだと信じ込んでしまった。だまって帰国を待つ気には到底なれなかった。」

山根「これまで私には名誉ある皇軍の軍人として、それなりの誇りと自負があった。だがその帝国軍人のなれの果てが惨めな敗残兵としての捕虜だった。(中略)たとえ日本に送還されることがあったとしても、送還後に処刑されるに違いない。私はそのように思い込んでいた。(中略)何度も書くようだが、私は捕虜の汚名を着せられ、処刑されるのは耐えられないことだった。ただひたすら自由になりたい、自由になって生き延びたいという一念で脱走を図った。」

捕虜になってその後どうなるんだろ?という心配が、よりネガティブな思考に走って結果として脱走へとつながったようで。

ラオスを目指した理由は、ベトナムは抗日闘争をしていたベトミンとかウジャウジャいるからすぐ見つかりそうだけど、ラオスならユルそうで何とか生きていけそうっぽい的な軽いノリだったようです。

2人とも、経緯は全然違うにしても最初は自由ラオス軍(後のパテート・ラーオ軍)に入ってラオス独立を目指してます。

途中から、ラオスは三国時代みたいになって左派(共産主義のパテート・ラーオ軍)・右派(親米反共産のラオス王国政府軍)・中立派(反共産でも反米でもない)が入り乱れたうえに、部隊ごとあっちに寝返ったりこっちに寝返ったりして、中立派が中立左派中立右派に分裂して・・・と、ちょっとよく分からない状態に。

赤坂は、最後まで左派のパテート・ラーオ軍に。

山根は、最初は左派のパテート・ラーオ軍にいたけど、途中から右派のラオス王国政府軍になったのでパテート・ラーオ軍の敵になったと。

赤坂が軍人としてラオスで戦ったのは、インドシナ戦争の10年で活動範囲は主にラオス北部

山根が軍人としてラオスで戦ったのは、インドシナ戦争とその後のラオス内戦の30年で活動範囲は主にラオス中部

赤坂がビエンチャンでお坊さんに変装した辻政信を送り出していた頃、まだ山根はラオス南部でカムクーツ方面軍第34部隊の指揮官としてパテート・ラーオ軍と戦ってる最中でした。

パテート・ラーオ軍時代にいちど赤坂と山根は作戦を一緒に戦ったことがあると赤坂は本に書いているけど、山根はそのことに関して一切触れてない。

ちなみに、どちらもベトナム人がちょっとイヤだったようです。

赤坂「ベトナム人のラオス人を軽蔑視する態度に反発を感じていた。それにラオバオのジャングルや山地で貧しさと訓練に耐えながら私を待ってくれるラオス兵の面影を思い浮かべた。ベトミン入りは断固断った。」

山根「私は思った。ラオス人はベトナム人には信用されていないと。(中略)ラオス兵はすべての点においてベトナム人から信用されていなかった。(中略)これまでベトナムではラオス兵と共に厳しい訓練に耐え、あるいは何日もの間、飲まず食わずでフランス軍との戦闘に参加してきた私だった。それはラオスというアジアの少数民族の独立を願ってのことであった。だがそのパテート・ラーオ軍は今やベトナム解放軍の意のままに動かされている。ラオス人はベトナム解放軍の手先ではない。」

赤坂は、ベトナムのベトミン軍には断固入りたくなかったけどパテート・ラーオ軍はOKだったみたい。

山根は、バックにいるベトナムが嫌でパテート・ラーオ軍すらNGだったみたい。

山根は自身が率いるパテート・ラーオ軍の中隊に『見張り役』として派遣されていたベトナム兵5人を『始末』して、中隊ごとラオス王国政府軍に寝返るわけです。

ま、そのラオス王国政府軍も実はフランス軍の手先だったとは寝返った時は思いもよらなかったでしょうけど。

そして最終的には、まさかパテート・ラーオ軍が全国統一することになるとは思いもよらなかったでしょうけど。

ベトナム側のラオス北部のジャングルでゲリラ戦を戦っていた赤坂に比べて、山根はラオス王国政府軍になってからタイ側のラオス中部で主に拠点防衛とか正規戦を戦っています。当時の政治的にも軍事的にもごちゃごちゃした情勢を知るには山根の本の方が多少は俯瞰した情報が得られます。

山岳民族であるモン族で構成されたモン特殊遊撃部隊(MSGU)を率いたバンパオ将軍も山根と同じ右派だったけど、本拠地が違うとほとんど接点がなかったのか?

最盛期4万人が住んでいながら地図には載っていなかった秘密基地ロンチェンを本拠地にしていたバンパオ将軍。

共産主義が自国に及ぶのを恐れたタイが非公然ながら、モン特殊遊撃部隊を訓練する特殊部隊を送り込み、秘密基地ロンチェン防衛のために30個大隊規模のタイ軍を送り込んでラオス内戦におもいきし介入していた公然の秘密。

そこら辺の情報も知りたかったけど、残念ながら一切記載なし。モン特殊遊撃部隊にはCIAが直接関与していて、金をバンバン使ってた話は出てくるけど。

まぁ、山根本人の戦記本だから自分とはあまり関係のないことは書かないか・・・

ちなみに・・・「東京財団研究報告書」の『ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究』と『日越関係発展の方途を探る研究』がPDFでネット上で公開されてるけど、これがなかなか面白い。

終戦後に外国で独立戦争を戦うことにした日本兵の動機とかを研究した報告書。

800人くらいはいたみたいね。

最後に・・・

1977年12月25日。

在ラオス日本臨時代理大使だった杉江清一と、その妻妙子がビエンチャンの自宅で惨殺された事件。

警察と検視医の現場検証に立ち会った山根が状況をチラッと本に書いてました。

20か所以上をメッタ刺しにされた杉江清一と、両手を後ろに縛られたまま8か所を刺されていた妙子。

日本の外務省はこれを強盗事件として遺族に報告するも、後日になって個人的怨恨と訂正。

一方ラオスの人民裁判所は、アメリカのCIAによる政治的謀略事件という判決。

その他、杉江が大規模な麻薬密売計画を調査していて、ある程度の情報を得ていたから・・・という話も。

辻の失踪といい、謎が多い国ラオス。

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